白話小説を訓読するのがムリでも

この週末は、勉誠出版の『「訓読」論』『続「訓読論』を読んでました。
興味ぶかい(なんて評するのも、おこまがしい)論点がいっぱいでした。


市來津由彦氏の「漢文訓読の現象学―文言資料読解の現場から―」は、訓読するときに、ぼくらのアタマのなかが、どういう処理をしているのか、こまかく明文化したものでした。「あるある!たしかに!そうやってます!」という、具体的な思考プロセスが書かれていました。


勝山稔氏の「近代日本における白話小説の翻訳文体について―「三言」の事例を中心に」は、白話小説をむりに訓読した残念な事例から、いかに白話の訓読がむずかしいか(むりか)という話を紹介する。白話の文法にたいする理解が足りないし、かってに「的」をはぶいて「の」を置いてしまうのは、ダメでしょうと。

ちょうど、ぼくがこの週末にやっていた、ゴリ押しの訓読もどきが、これです。「武松的手」を、幸田露伴は「武松的の手」とするが、それでは日本語ではないから、「武松の手」としたいなあとか、このブログに書いたばかりでした。

勝山氏いわく、あるとき佐藤春夫は、白話小説から、まずは英訳もしくは独訳されたものを、つぎに日本語の口語に変える という手順をふんだ。この作業によって、白話小説を読むにも、とりあえず訓読してから……という長年の慣習をかるがると飛び越え、白話小説から日本語の口語に変えるというルートが生まれていったと。


ところで、明治期にとっくに決着がついた議論かも知れませんが、ぼくは、訓読の文体がもっている、ちからづよくて簡潔なリズムが好きなので、白話小説を、訓読の文体にしたい と思います。

これは「白話小説を訓読したい」とはちがう。すでにこちらは、明治の博識なひとびとですら、失敗した。だから、口語訳というルートが確立した。

より厳密にいうなら、白話小説を、訓読の文体に翻案する作業をしたい、という感じでしょうか。ここは『水滸伝』のブログだけど、ぼくが最終的にやりたいと思っているのは、三国演義李卓吾本を、訓読の文体にすること。

『通俗三国志』よりは、白話の知識をとりいれる。大学で、第二外国語は中国語だったから、江戸時代の知識人たちよりは、中国語の口語に触れた機会はある。これから、現代中国語の勉強もがんばる。中国に行ったこともある。これは、江戸時代や明治初期の人たちに比べると、かなり有利だ。

原典との対照関係は明らかにしたいから、ことわりなく、文字を省略することもしない。「武松的手」から「武松の手」にしたという、プロセスを保存しておく。そういう感じで、『通俗三国志』の新版をつくりたい。

訓読の文体そのものが、江戸時代を通じて変遷して、明治になって、政治的な文脈のなかで、いろいろな流派の淘汰がおわって、収束した。いまぼくたちが高校の漢文の授業でならう、訓読のかたちが完成した。その「あと知恵」をつかって、『三国演義李卓吾本の訓読のやりなおしをしたい。

水滸伝』は、白話小説と悪戦苦闘して、辞書が作られてきたという分野。先人の蓄積を吸収するには、すこし回り道に見えても、すぐに『三国演義』にとっつくよりも、『水滸伝』を熟読したほうがいいようです。


いまの感心は、江戸時代に作られたという、『水滸伝』の白話の辞書です。