近世、三国演義より水滸伝が人気

高島俊男水滸伝と日本人』を読みました。『水滸伝と日本人』をに匹敵する、三国演義と日本人』が書かれるべきだなあと思います。

雑喉潤 『三国志と日本人』では、まだ足りない。

ぼくが関東圏に住んでて、主要な図書館に出入りできる立場だったら、書きたかった。大学時代は、『通俗三国志』を読むだけでも気息奄奄だったが、いまなら近世以降の諸書をスラスラ読めそうな気がする。


高島氏の本を読んで思うけれど、近世の日本における白話小説の受容って、『三国演義』よりも『水滸伝』のほうが優勢だったのだろうか。

卒論のとき、『通俗三国志』を起点にした、近世の『三国演義』受容について情報をあつめたが、『水滸伝』ほどの充実が見られなかった気がする。もしくは、ぼくの探し方が悪かったのか。

その卒論は、ここに置いてます。

『通俗三国志』の成立と十七世紀における中国文化の受容
http://3guozhi.jp/o/tzk.pdf


水滸伝』にかんする書籍は、最後まで完結させられないのに、注釈書や訓読書・翻訳書が、さみだれ式に出版されたと、高島氏の本で知れる。*1

近世の知識人・出版者たちは、「これが白話小説というものか!これまでの訓読の手法が使えない」、「未知の語句がいっぱいだから、辞書を作らねば」と、『水滸伝』界隈でもりあがった。『三国演義』は、白話の知識がなくてもギリギリ読める気がするから、『水滸伝』ほど注目されなかったのか。わからない……

水滸伝』の新しさや魅力は、登場人物のキャラ立ちや、散発的な個別の名場面。

近世日本の『水滸伝』原文の読者たちと、それに追随する日本の出版物の読者たちは、『水滸伝』の前半(というか冒頭)の銘銘伝だけで満足して挫折していく。中絶した書物のおおいこと、おおいこと。
しかし、ぶざまに挫折しても、充分に、「なんか、すごいものを読んだぞ」という、充足感を味わえる。その点、後半に諸葛亮が登場する『三国演義』は、ストーリーで読ませるものの(ストーリーで読ませるがゆえに)、五丈原まで読まねば、おもしろさが伝わらない。しきいが高い。

水滸伝』の長所は、冒頭をかじるだけでも楽しめる(じつは魅力の過半を味わえる)ことと、新奇で最先端の白話小説(っぽさ)に触れられること。『三国演義』は、五丈原まで忍耐せねば魅力に到達できないし、新奇で最先端な白話っぽさに乏しい(文語文の訓読で、ねじふせられる気がする;気のせいだけど)。

だから近世の知識人・出版者は『水滸伝』を重んじたのか。


水滸伝』と『三国演義』のちがいは、単純に、内容の好き嫌いだけでは、語り尽くすことができない。近世における、原典へのアクセスのしやすさなど、環境に左右されると思います。

ネットや解説本が充実した今日では、長編を読むとき、物語の特性やあらすじをザックリ把握してから、読み始められます。でも近世のひとは、舶来の本を高値で入手し、不慣れな外国語に悪戦苦闘して……となります。好みも当然ありますが、環境の影響も大きそうです。

高島氏が書いておられるが、ほかの品物とくらべて、書籍の相対的な金額って、時代がくだるにつれて下がっていく。そのなかで、少なくとも五丈原まで読まねば、「読んだぞ!」という気になれない『三国演義』は、不利だったかも知れない。

明治に入っても、出版者の資金繰りの関係から、「予約してくれたら、値引きする」という商法が取られた。ながいものを出版しつづける・購読しつづける、というのは、今日のぼくらが考えるほど、簡単なことではない。

というわけで、全編を通じて、しっかりした(史実に準拠した)ストーリーをもつ『三国演義』よりも、断片的で、全編をつらぬくストーリーに、あまり魅力のウエイトがない『水滸伝』が、受けた理由がわかります。

宋江がなかなか出てこないとか、宋江梁山泊集団の性質をコロッと転換させてしまうとか、必然性のない四方の討伐に走りまわるとか、そういうことに対するクレームは、出てきにくいのです。わりに最初のほうで、武松がトラをなぐって、潘金蓮を追いつめていれば、それでいいのです。

ぎゃくに、

出版するコスト・購読するコストが下がった今日では、『水滸伝』よりも『三国演義』のほうが優勢な理由が、ここにあるのかも知れません。

出版するコストは(出版業界の全体は低調かも知れないが)近世よりは、ずっと安くなった。購読するがわのコストは、本を入手するために支払うお金ではない。「読むための時間」を捻出することが、最大のネックになる。

それならば、個別にもおもしろく(ぼくは局所的な場面のつみあげにおいて、『三国演義』と『水滸伝』はひきわけだと思ってます)、かつ全体のストーリーも筋がとおっており、歴史の勉強もできそうな『三国演義』に、軍配がかたむくのでは、ないでしょうか。


水滸伝』vs『三国演義』を、話のなかみとか、話の好き嫌いとか、そういう内側のことだけではなく、出版文化とか、翻訳文化とか、全体を通じて見てみたら、いろいろ言えるのかも知れません。

*1:三国演義』は『通俗三国志』一択と思ってたが、『水滸伝』の盛況を見ると、違和感が出てきた。もっと、いろいろ、出版されていたのではなかろうか。