魯智深=韓当、武松=程普が、南下する
第6回 韓当が公孫瓚と再会する
韓当が立ち寄った家では、痩せた人々に、「あなたに食べさせる飯はない」と断られる。現地の豪傑が、食糧を独占しているから。かまわず、韓当は、別室で炊けている飯を食ってしまう。
現地の豪傑が、「オレの飯を食いやがったな」と、韓当に襲いかかる。しかし韓当は、返り討ちにする。
さらに韓当が旅をしていると、林の上から、「荷物を置いていけ」という声がする。応戦すると、これは公孫瓚である。
ぼくはアレンジして、公孫瓚が太守のもとに就職して、賊を取り締まっているところに、韓当がひっかかった、という話にしてもいい。公孫瓚は、太守を尊敬するあまり、交趾への徙刑にも付いていくという(公孫瓚)。この場に、上官の太守を持ってきてもいい。
劉太守坐事徵詣廷尉,瓚為禦車,身執徒養。及劉徙日南,瓚具米肉,於北芒上祭先人、舉觴祝曰:「昔為人子,今為人臣,當詣日南。日南瘴氣,或恐不還,與先人辭於此。」再拜慷慨而起,時見者莫不歔欷。劉道得赦還。(公孫瓚伝)
のちに、劉太守を見送って、ウロウロする公孫瓚、というシチュエイションを作ることができる。ここは、劉太守にご登場ねがおう。公孫瓚は劉太守に、いかに韓当が正しい人物であるか、語るのだ。飯の件で、斬殺をしたけれど、じつは悪くないんだとか。
公孫瓚が近況を語るに、3人の義兄弟(占い師とか商人とか)も含めて、公孫瓚が官禄によって養っており、仲よく暮らしていると。
韓当は、つぎの行き先を探してる。公孫瓚が、地元での就職の世話をするというが、韓当は幽州にいたくない。なんか、別天地に行きたくて、モヤモヤしている。
その後の韓当
道中、韓当が腕力を見せびらかしていると、美男子にあう。
これで宿題は2つ。既成の序列を守らない魯智深のキャラ。一連の林冲故事(妻に横恋慕され、高俅にいじめられ、梁山泊に落ち着くまで)。林冲の悲劇性を演じてくれる、漢末のキャラクターって誰だろう。張奐とか?
『水滸伝』では、時空がねじれて、これから林冲故事が語られ、林冲がいたぶられながら護送するところに、ふたたび魯智深が立ち会う。しかし、ここで魯智深が登場する必然性もない。第7回の林冲故事は、中央もしくは西方の出来事として、置き換えたい。『水滸伝』楊志を馬騰として(建国の名臣の子孫つながり)、『水滸伝』林冲を張奐として、ともに西方のストーリーにしよう。
話の切り替えどころが難しいけど。
韓当が腕力を見せびらかしていると、高官が通りかかる。劉虞である。
『水滸伝』で魯智深が怪力を見せびらかすのは、7回の前半。ここから林冲故事にうつり、林冲がいたぶられて徙刑にあっているところを、魯智深が救出する。これが9回。魯智深と林冲は、柴進を頼ることになる。というところにワープした。林冲故事をすっとばすため(あとでやります)、林冲と出会うべきところを、柴進に出会うことにした。駒田訳で112ページ。
劉虞に、「どうしたの」と聞かれて、韓当はモヤモヤを吐露する。劉虞は、「とりあえず、うちに来なさい」と言ってくれる。
『水滸伝』9巻の後半で、林冲は、柴進のもとをさって、牢城でまたイジメにあう。張奐の暗殺を命じる張譲、というのはありそうな設定。改めて、地の文に落とそう。
劉虞のところで韓当が、無為な日々を過ごしていると、うっかり廊下で誰かを、蹴り飛ばす。程普である。
原典は、林冲故事と宋江故事をはさんで、『水滸伝』23回の冒頭。宋江と武松が、柴進のところで、遭遇するシーン。ここから「武十回」が始まる。ぼくのなかで、「韓当と程普が、幽州生まれ同士で、南に下っていく」という話をつくるとき、魯智深と武松のペアに置き換えたい。
いまから主人公が、武松こと程普になる。もしくは、ここでいちど視点を変えて、べつの人の物語にしたほうが、気分が変わるかも。
第23~32回 程十回
程普は、韓当と同じように、力を持て余しているところを、劉虞に拾われた。しかし、まだ若くて社会に出る気がないし、そもそも病気持ちである。韓当に蹴られて、体調がよくなったので、故郷(おなじ幽州内)の兄に会いにいく。
武十回ならぬ、程十回(程普を主人公にした十回分)の着地点は、「どうやら徐州には、すぐれた人物がいるらしい」と、ウワサに聞いてくること。この徐州の人物とは、もちろん孫堅のこと。
孫堅伝によれば、171年、孫堅が海賊を退治する。172年、陽明皇帝の許昌をやぶり、鹽瀆(広陵)丞・盱眙(下邳)丞・下邳丞を務めていく。このころ、徐州にいる。
程普は、兄嫁の浮気に報復する。その罪により、護送されているとき、人肉饅頭屋にくる。
人肉といえば、『三国演義』19回の劉安。劉備に人肉を出してくれる。きっと『水滸伝』張青(人肉屋のおやじ)が劉安で、『水滸伝』母夜叉の孫二娘(人肉屋のおかみ)が劉安の妻なのだ。劉安の妻は、のちに劉備に食われる。108人の割り付けが進んで、嬉しいなあ。
人肉饅頭屋は、程普をすぐれた人物だと知り、謝る。飲食店というのは、情報の交差点だから、孫堅のウワサを耳に入れる。しかし程普は、すぐには動かず。
祖茂は、孫堅の四天王(←ググった結果)として、程普・韓当・黄蓋とともに、『三国演義』で名を連ねているらしい。そして出身地が不明。よし、『水滸伝』施恩は、祖茂とする。祖茂は、程普のおかげで地元で顔を立てることができ、孫堅軍への加盟についていく。
程普は、徙刑を食らう先で、厚遇される。
なぜなら、祖茂が役人にワイロを渡してくれていたから。祖茂が、程普のために便宜を図った理由は、地元で顔を立てたいから。祖茂は、程普の力を借りて、みごとに地元でライバルを圧倒する(『水滸伝』29回)
活躍を終えた程普が、眠っていると、盗賊につかまる(『水滸伝』31回)。しかしその盗賊とは、人肉饅頭屋の劉安の部下だった。程普は、死なずに済む。
武松=程普は、兄のかたきをとり、施恩=祖茂を助けたら、もうエピソードが満腹である。『水滸伝』の孔明・孔亮は、ちがった形で出てきてもらう。張青=劉安のところで、行者=道者なりの衣装をもらったら、柴進=劉虞のところにいる、魯智深=韓当と連れだち、施恩=祖茂も一緒になって、下邳の孫堅をめざそう。
問題は、孫堅を、『水滸伝』キャラに比定できてないこと。まずい!
構成にかんするメモ
原典『水滸伝』は、バラバラの逸話を、ひとつなぎで読めるように、編纂したもの。そういう組み立て品であるならば、各要素を台無しにせぬよう、注意を払いながら、解体・再構築をすることができるはず。
とりあえず、盧植が帰郷して趙雲・公孫瓚に出会うというトリガーから、韓当・程普・祖茂が下邳の孫堅をめざす、という話になりました。
『水滸伝』武十回が終わる32回まで来てしまったが、『水滸伝』積み残しているのは、おもに3つのエピソード群。
ひとつ。林冲が高俅にいびられ、梁山泊に落草したところを、通りかかった楊志に襲いかかる。という、梁山泊という拠点にまつわる話。じつは、梁山泊というロケーションがなくても、ここまでの話は成立してしまうという。
これは、林冲を張奐、楊志を馬騰(この比定の結果、『北方水滸伝』オリジナルキャラの虐殺マシンの楊令は、子の馬超となる)を中心にして演じてもらう。梁山泊の拠点を奪われる王倫の役割は、韓遂らがつぎつぎと使い捨てにしていく頭領(北宮伯玉や李文侯)を充てればよい。
のちに曹操と対抗することにある、「関中十部」が、『水滸伝』で梁山泊という拠点にむれる盗賊の集団になる予定。馬超と、『北方水滸伝』楊令は、重なるところがある。最強の騎馬をひきいて、アタマが断線したようなところが。
つぎに、晁蓋を中心とした、生辰綱をうばうプロジェクト。晁蓋は袁紹が、盧俊義は袁術が演じる。こちらは『水滸伝』の原作とちがって、明確な水塞のようなものを築かず、人的な結合を強みにして戦う。
なぜかって、史実として、袁紹が霊帝期に割拠しないからです。『水滸伝』をモチーフにして、史料にない行動を取らせるけれども、史料に矛盾しない。目指すところは、そこです。
袁紹らが、特定の地盤を得るのは、董卓が執政してから。『漢末水滸伝』で、どこまで描くのか、ちょっと未定。燕青の役割は、曹操が演じる。李師師こと卞氏を操って、宮廷にふかく潜入して……という話もあるのかも。
『水滸伝』に引きつけて、『水滸伝』のイフものとして捉えるなら、晁蓋が梁山泊に入らず、保正としてオモテの顔をキープしながら、北宋を転覆させるための陰謀をめぐらす、、という組織になる予定。
さいごに、宋江こと劉備。宋江が閻婆惜を殺すように、劉備はしょーもない殺人をする。宋江のように、劉備は各地を旅する。李逵こと張飛が、朱仝こと関羽が職務上の失敗をするように仕向けて……という感じ。
劉備集団は、傭兵としての能力を高めながら、史進こと公孫瓚に合流する。
『水滸伝』史進の少華山は、梁山泊に合流するけれども、『漢末水滸伝』公孫瓚の勢力は、安易に袁紹に合流しない。むしろ、袁紹と対立します。こちらのほうが、リアリティがある。劉備は、そのどちらにも関係を結びながら、フラフラする。
『漢末水滸伝』構築にむけて
扱いとして浮いているのが、董卓。まだ『水滸伝』の話のなかでの位置づけが見えてこない。関勝や呼延灼のような辺境の軍閥として、ライバルの勢力になるのかな。
また、
すでに扱った、魯智深こと韓当、武松こと程普、施恩こと祖茂は、孫堅軍を形成するのだけど、涼州の討伐にもいく。董卓たちと一緒に戦うし、馬騰たちを討伐する。地域ごとに分かれたままじゃなく、史実どおり、互いに交渉をもつ。
すでに書いたように、袁紹と公孫瓚だって戦うことになる。そこまで(あとの時代まで)描くかは、これから考えるけど、とにかく、拠点ごとに別々に人材を集めつつ、原典『水滸伝』以上に、おもしろおかしくシャッフルされる。必然性をもって関与しあう。
構成する力が試されるなー。がんばろう。
ごちゃごちゃ書いており、『水滸伝』を読んでない三国ファンには、なにの話をしているのか分からないと思いますが、、『漢末水滸伝』は、『水滸伝』を知らなくても、「ほお」と思って読んで頂けるような話にする予定です。『水滸伝』との対応関係を知ると、より楽しい、というオプションです。あくまで『水滸伝』はオマケです。150501
1~5回より、幽州の出来事
三国志と『水滸伝』が融合した話をつくる計画
という遊びをしています。『水滸伝』の駒田信二訳を見ながら、漢末・三国に比定していく作業をします。『漢末水滸伝』というタイトルを考えています。
話の大筋としては、『水滸伝』晁蓋にあたる袁紹が、『水滸伝』の悪役の筆頭である高俅を斬っておしまいとなります。史料に本格的に登場する前の、後漢末の群雄たちの前史(青年時代)を描くことにします。
『水滸伝』では、悪役の高俅が最後まで生き残ってしまい、主役の宋江を毒殺するという、後味のわるい結末です。しかし、ぼくの『漢末水滸伝』は、袁紹が張譲をぶったぎるという、史実に沿いながら、スカッとする結末にしたいと思います。
『水滸伝』方臘の乱は、張角の黄巾の乱に置き換えます。『水滸伝』で方臘は、梁山泊を壊滅させるような強敵です。しかし『漢末水滸伝』で、主要な登場人物を殺してしまったら、三国時代に支障がでるので、黄巾の影響は調節するつもりです。
全体像を描けたところで、『水滸伝』120回本に拠りながら、三国志ものへの置き換えを計画してきます。思いつきで書いているので、設定は、コロコロ変わります。というか、この過程で設定をつくっていくので、コロコロ変わらなければ、これをやる意味がありません。
第1回 梁冀が封印を解く
後漢の順帝期から、話を始める。
西暦にして144年、順帝の末年、涼州で地震があって、光禄大夫を派遣して、救済にいかせる。
なぜ順帝期から語り起こすかといえば、『水滸伝』が、本編がはじまる約40年前、北宋の仁宗の時代から語り起こされるからだ。それを踏まえています。
天災を心配した順帝は、大将軍の梁冀を使者に立てて、「南華老仙を訪ねて、祈祷をしてもらえ」という。
梁冀は、3年前の141年に、父の死を受けて大将軍になっている。天子が、信頼すべき最高位のひとに祈祷を依頼する。というかたちで、原典を踏まえている。
南華老仙とは、張角に薬草をさずけるひと。荘子の生まれ変わりらしい。ともあれ、『水滸伝』の仙人である張真人は、漢末の張魯さんの末裔なので、ここで出すことができない。かわりに南華老仙に出てもらった。あとで話にからませよう。
梁冀は、いやいやながら、道教の聖なる山にいく。
伏魔之殿には、「遇梁而開」という予言が書かれている。梁冀は、権力や武力を背景にして、むりに封印を解かせてしまう。その結果、108の魔星が飛び散ってしまう。漢が滅びる遠因をつくったのは、梁冀さんですよ、あーあ。。ということで、梁冀は、自分のやったことの重大さに気づかずに洛陽に帰る。
第2回 盧植が、趙雲・公孫瓚を教育
ときは流れて、霊帝の時代。張譲という、蹴鞠だけがうまい、しょーもない宦官がいました。それが霊帝の目にとまって、出世しました。
史実から、張譲のエピソードを持ってきて、悪役ぶりを強化してもいい。『三国志平話』や『三国演義』から、張譲の悪さを補強してもいい。とにかく、王朝が腐敗している、ということを表現するための装置なのだから。
孟達の父親の孟他が、張譲にワイロを送り、、というのも、使いたい。
175年、九江を平定すると、盧植は病気になったといって、官職を去る。このように去った理由を、張譲とのトラブルにしよう。
『水滸伝』王進が、盧植の役割を果たす。王進は延安府に向かうが、方角としては北に逃れている。盧植が幽州に帰るというイメージに合う。
『水滸伝』の王進は、行方不明になる。『北方水滸伝』では、子午山に籠もって、不良少年の教育をやる。『漢末水滸伝』では、盧植は史実どおりに学問に打ちこみ、黄巾の乱では将軍として活躍してもらう。細部までは一致しないけれど、史実を優先する。というのが基本スタンスです。
盧植は、洛陽の政変を嫌った。官邸で養っていた母を連れ出し、帰郷する。その途中で、母が体調を崩して、常山郡の真定県で泊めてもらう。槍の稽古をしていた少年に、「下手だな」という。これがのちの趙雲。
趙雲は、きっとまだ、10歳に満たない子供だ。だから、武術に秀でた盧植でも、教育できる。盧植は、文武両道の「儒将」といわれるから、槍の手ほどきぐらいできるだろう。さっき九江で平定戦をやったばかりだから、気持ちが戦闘モードであり、口走ったのだ。
盧植は、少年の趙雲に、18般の武芸(の基礎)を教えた。
盧植は、故郷の幽州に辿りつく。すると、公孫瓚が入門してくる。公孫瓚は、太守の娘婿になっており、その援助をもらって、盧植に学問を習いにきた。
そのころ公孫瓚は、在地の盗賊たちのウワサをきく。
もともと史進の話だって、バラバラの講談を、『水滸伝』編者がつなぎあわせたものであって、同じキャラが経験する必然性がない。だから、ぼくの都合で、解体・再統合をする。こうしたムリをしてまで、「史進=趙雲」にしたかった。「竜」のイメージが重なるし、長いものが武器だし、北方謙三も「史進=趙雲」と言ってたしw
少華山に拠っているのは、3人の首領。
公孫瓚が義兄弟となったのは、もと占い師の劉緯台、絹売りの李移子、商人の楽何當です(史実)。というわけで、公孫瓚には、この3人に、このタイミングで出会ってもらう。
できれば、後漢末の史料にある人物のすべてに、108人を割り振りたい。ただし、『水滸伝』でキャラ立ちしていない人物を、むりにキャラ立ちさせることはしない。「きちんと割り振りましたよ、義理は果たしましたよ」という、作者(ぼく)と読者との契約のようなものをイメージしてます。
公孫瓚は、3人のアウトローな盗賊と、はじめは対立するけれども、互いに認め合って仲間になる。
第3回 韓当が肉屋を殴り殺す
公孫瓚は、盗賊と一緒にいるところを見られて、盧植のところに居られなくなる。仕方がないから、故郷(遼西の令支)に帰ることにする。
宋江とあんまりカラミがないが、幽州・冀州にいそうな人物。これが、韓当と程普なのです。『蒼天航路』のイメージで、韓当は、顔が横にひろがって丸くて豪快そうなので、魯智深の役をやってもらう。『無双』でも、怪しげなオヤジだった。程普は、きびしい軍官という印象があり、また周瑜を芳醇な酒に例えることから、アル中の武松の役になる予定。
公孫瓚と韓当が、意気投合して酒を飲んでいると、女の泣き声がする。韓当が事情を聞けば、わるい肉屋に騙されて、ただ働きをさせられている。韓当は怒って、肉屋を殺す。
一緒に酒を飲むひととして、『水滸伝』では打虎将の李忠がいる。史進のかつての師匠であり、武芸を見せて薬を売り、周通とともに山に籠もり、しょぼい盗賊をやって、呼延灼の馬を盗むという役所。幽州あたりのB級の人物を宛てねばならん。
公孫瓚が刺史に任じる、青州刺史の田楷、兗州刺史の単経、冀州刺史の厳綱あたりが、これに該当するだろう。108人に含まれるのだから、重要人物であるべき。公孫瓚の持ち駒が3つある。しかしこの3人は性格の記述がない。
もしくは、長史の関靖。これで持ち駒が4つ。
英雄記曰:關靖字士起,太原人。本酷吏也,諂而無大謀,特為瓚所信幸。救至,欲內外擊紹。(公孫瓚伝注引)
酷吏だが大謀がない、というコモノぶりから、『水滸伝』李忠を、関靖とするという結論でよいかも。公孫瓚の格上として、軍師めいた発言をする。
第4回 韓当が逃げるだけ
韓当は、故郷にいられなくなり、逃げ出す。
助けた女の(新しい夫を介した)斡旋で、出家する?
「既成秩序のなかに溶け込めず、失笑を買う」という役割は、宿題として別のキャラに割り振ろう。韓当は、鎮関西のようなやつを殴り殺しそうだが、五台山を騒がしそうではない。イメージに合わない。原典『水滸伝』でも、はやく生辰綱を読みたくなって、間延びするのが、このあたりなのだ。
『水滸伝』第4回は、五台山を追い出された魯智深が、大相国寺に移動することになって、終わる。『漢末水滸伝』において韓当は、故郷から逃げ出したところで、つぎの第5回のエピソードにいってもいい。
それから魯智深には、『北方水滸伝』でオーガナイザーをやった実績がある。孫堅集団の立ち上げにあたって、韓当がせっせと人材の説得に回った。というほうが、いい感じだ。
第5回 韓当が一目惚れを阻止する
韓当が流浪していると、
娘を盗賊に奪われそうだ、、と在地領主が泣いている。どうやら盗賊が、娘にひとめぼれして、今夜、ひきとりにくるらしい。韓当は、「私が、かわりに娘に化けて待機し、その盗賊がきたら退治してやりましょう」と請け負う。
また周通をWikipediaで調べると、「桃花山を根城にした山賊で槍の使い手だが、梁山泊でもさほど強い方でもない李忠に一騎討ちで敗れるほど格別腕が立つわけではなく、梁山泊の騎兵将校では最低の席次であり、魯智深には小物呼ばわりされている」とある。小人物がよい。
韓当は、盗賊の王門をとっちめた。
瓚將王門叛瓚爲袁紹、將萬餘人來攻。衆懼欲降。豫登城、謂門曰「卿、爲公孫所厚而去、意有所不得已也。今還作賊乃知卿亂人耳。夫挈瓶之智、守不假器。吾既受之矣。何不急攻乎?」門慚而退。(田豫伝)
公孫瓚の部将に、王門というひとがいる。公孫瓚に叛いて袁紹に味方するものの、田豫に言動を批判されて恥じて撤退する、という情けないひと。
韓当に敗れた王門は、韓当を本拠地に招き入れる。すると、王門の兄貴分におさまっているのは、あの関靖である。
関靖は、韓当にこれまでの経緯を説明する。
「公孫瓚と別れたあと、韓当が肉屋を殺したと聞いた。心配してウロウロしてたら、王門と遭遇した。王門に襲われたが、ぎゃくに王門に勝ったから、山賊の首領に収まっていたのだ」と。
韓当は王門を説得して、嫁取りのことを諦めさせる。いっぽうで、関靖・王門が盗んだ財産を持ち逃げする。
韓当の動きを整理すると、公孫瓚と意気投合→ 肉屋を殴り殺す→ 王門の一目惚れを諦めさせる、となる。結婚がらみで対句になっているし、作者も読者も付いてこれるはず。あんまり複雑にしても、おもしろさが比例するわけではない。
韓当の旅はつづく。150501
北方『楊令伝』要約と分析(巻2下)
225ページ~
青蓮寺の李富と李師師が、方臘の領地を見物にいく。方臘は、後漢末の黄巾の乱・五斗米道に似ているというのが、青蓮寺の分析。宗教は、軍という組織をもっていない。手強いのは梁山泊のほうだと。
徽宗の花石綱には困ったものだなーとも、李富らが語る。もしも賃金を払えば、経済がまわる。しかし徽宗は、徴発をするだけだから、民が疲弊するだけ。
こういう現状認識(というか史実か)が、北方大水滸をむずかしい物語にする。
『北方水滸伝』のときは、悪の権化である宋王朝があって、それを倒すことが目標であった。こういう分かりやすいゴールがあれば、読者も(作者も)話を楽しむことができる。
しかし『楊令伝』に至ると、青蓮寺ですら、宋王朝を見放している。長江より南が方臘に切りとられても、すぐに対応できない。梁山泊が1州を切りとっても、すぐに対応できない。燕雲十六州を奪回するチャンスがきても、動きがよくない。というか、ここに書いた兵役を、『楊令伝』では、童貫がひとりで全部、なんとかしようとする。
宋王朝という体制の動きが、史実はどうであれ、『楊令伝』においては、「童貫がかってにやってること」にすぎない。童貫と楊令の私闘、意地の張り合い、でしかなくなる。『北方水滸伝』を通じて、ライバル関係にあるものが絞りこまれ、余計なものが削ぎおち、ここに至った……というと聞こえがいいけれど、それって面白いのか?
その当然の帰結として、童貫が片づいてしまうと、楊令は行く先を失って、物語は背骨がなくなり、つまらなくなる(らしい;まだ読んでません)。
原作『水滸伝』で、一貫して悪玉であり、最後には宋江を毒殺してしまう、悪役の高俅。その高俅ですら、権力争いに敗れて、路地でこじきをやってる。侯健(高俅によって股を裂かれた)の子である侯真は、報復する相手が、あまりにショボいから、見て見ぬふりをして終わり。
建設の物語、創意の物語、というと聞こえがいいけれど。おそらく、神話の時代から遡って、人間がストーリーに求めるものって、『楊令伝』のようなものじゃなく。単純に、敵がいて、味方がいて、、という話でいいでしょう。
楊令が、中途半端にアグダに接近するから、梁山泊にとって、征服王朝である金が、悪役でなくなってしまった。民族問題などさておき、中国の文学史で言われているように、民族的な自覚の発露の物語として、「悪役の金をやっつける話」で良かったのではないか。
梁山泊が童貫と戦うために、周辺にも同盟を求めた結果、金を味方につけることができた。最終決戦で、禁軍の兵力を、そちらに割かせることに成功した……という果実を得るためだけに、払ったコストが膨大すぎたと思う。
240ページ~
方臘のところに潜りこんだ呉用のターン。
方臘「王になってみたいという思いは、めしを食いたいという思いに似ている。めしは、1日に3度食らう。一生に1度、食らってみたいという飯(称王)があっても、悪くあるまい」
273ページ~
呉用が、早くに死んだ阮小五を思い出す。作者も、早く殺しすぎたといっていた。
いま梁山泊は、やっと遠隔地に旗を掲げたとか、まだストーリーが本題に入っていかない。見取り図を書けば、まず呉用が方臘のなかに潜入して、童貫と方臘をぶつける。童貫の戦力をそがせる。ここまでは、呉用がいってる。
メタにいえば、呉用が方臘のところでレベルアップして(判定は微妙)、方臘のところから人材と兵力を連れてきて(こちらは達成した)、童貫を倒す。つまり、方臘のところに呉用が潜入するという手順を踏まなければ、童貫に勝つことができなかったのだ!と、読者に納得をさせなければならない。さもなくば、ムダな枚数を費やしたことになってしまう。読者にムダな出費をさせたことになる。
「呉用が方臘の乱を経験したから、梁山泊は童貫に勝てた」というだんどりは、いちおうは守られていたと思います。
方臘のところで、みょうに悟ってしまった呉用が、北方大水滸のシリーズにおいて、今後も活躍するようなので、方臘のくだりは、ムダではなかっただろうし、これからの展開に期待です。
史実の反乱のなかに、架空の人物が潜入して、手柄をせびり取る、という意味では、楊令がアグダのところにいくのも、同じパターンです。楊令がいなくても、アグダは金を建国した。青蓮寺や梁山泊が画策しなくても、金は南下してきた。しかし、それらの史実のなかに、楊令の影響があったということにした。
(このアイディアによって、「打倒!女真族!」という構図を放棄せざるを得なくなった、というのは、さっき書きました)
方臘の乱も、呉用がなくても、方臘は起兵した。というか、原作『水滸伝』では、呉用は方臘を滅ぼすがわの人間なのだから、史実も原作も、1回転ひねりして、『楊令伝』が描かれている。
280ページ、こんどは呉用が、楊令を説得する。
呉用「梁山泊軍を、再興するのだ、楊令」
じっくりと説くつもりだったが、最後に言おうと思っていたことを、口にしてしまった。
楊令「早過ぎませんか。こちらはまだ、金宋同盟で、遼を潰そうとしているところですから」
というタイムテーブルのズレで、呉用が「志を、否定するのか?」と焦ってしまう。なかなか楊令の説得は成功しない。
やはり、金国まで話をひろげたことで、楊令のキャラとか戦略とかが、散らかってしまい、梁山泊のひとびととギクシャクしている。
たとえば、太平洋戦争の話を書いていて、宇宙に飛び出し、日本軍が「アンドロメダ軍団」と同盟して、アメリカ軍に勝とう!みたいな、はちゃめちゃな感じになってしまった。地球上で話を完結させておき、続編で「宇宙からの侵略者に、地球人が団結して立ち向かう」とするのが、正解なんだと思う。
351ページ~
楊令に遭遇。367ページで、楊令が岳飛を「子供か」とあしらう。トラウマ!
375ページで、史進と楊令が再会。王進のところの、先輩・後輩にあたる2人は、結びつきが強いから、史進が泣いてしまう。そして、作中の楊令も、読者も、泣かなければならない場面。
楊令は、これまでやってきた殺戮・略奪について、史進から問われて、「自分のやってきたことについて、説明する気が、オレにはありません」と黙ってしまう。けっきょく読者は、2巻にわたって展開されてきた、「幻王と楊令は、果たして同一人物なのでしょうか」という問題に、適切な回答を与えられずに、放置される。
楊令には、はじめから殺戮・略奪をしてしまうような性質が備わっていたのだろう、、と史進が、みょうな納得をするのだが、、ぼくは納得できなかったなー。
北方『楊令伝』要約と分析(巻2上)
15ページ~
楊令「酒を飲もう」
燕青「これ、水じゃん。ウソつくなよ。実物が水でも、それを酒だとでも思わなければ、幻王の殺戮稼業なんて、やってられんのだろうね」
楊令「本当は野望でも、それを志だと思いこむのと同じっす」
という禅問答から始まる。楊令が梁山泊に対して懐疑的になり、取っつきにくい人物に劣化してしまった……というのが、ぼくの印象ですが、どうやら作者はそれを意図していないようで、燕青も武松も、へんに物わかりがよく、楊令の言葉あそびに付き合ってしまう。
そのくせ楊令は、梁山泊には戻らない、と駄々をこねる。なんだこいつ。
楊令が使い物にならないなら、呼延灼がトップに、、とも思うが、やはり呼延灼では足りない。しかし、略奪をしている楊令を、トップに迎えるというのは、イヤだなー。梁山泊の復興はできないのかなーと、みんなが悩む。
45ページ~
呉用は、趙仁という人物になりすまして、暮らしている。ほんものの趙仁をほうむって、戸籍を乗っ取るというのは、青蓮寺がやってたこと。今回は、公孫勝がやった。梁山泊は正義の味方で、青蓮寺は悪の手先である、という『北方水滸伝』の了解がくずれて、相互の組織が似ていく。
趙仁になりすました呉用は、方臘に接近する。
梁山泊には国に関する「思想」があるから高級で、方臘には「宗教」しかないから低級である。宗教の「くせに」、ものを考えている。宗教の「わりには」、すじが通っている。という、宗教を蔑視した語調で、物語は進んでいく。なんじゃこら。
このあたり、作者の限界だと思うのだが、「思想」は優れており、描く価値があり、「宗教」は劣っているから、描く価値もない。「宗教」家にみえた方臘のなかに、「思想」家としての側面がのぞくと、呉用(に入りこんだ作者)が、方臘の評価をあげる、という構図になってる。へんなの。
方臘は、「死ぬことが幸せ」という教義から、「殺してあげることが施し」というロジックに飛躍させ、「死を恐れずに殺しにいけば、ウインウインの関係となる」をひねりだす。方臘が「度人」というコマンドを使うと、信者は、命を投げ出して進んでいく。思想には志があって、内面が豊かだが、宗教とは志のない思考停止であり、意味不明で不気味な人だかりである、、というお話。
国について語れば、偉いんかいな、と思ってしまう。
73ページ~
楊令が武松のコブシを切り落とす。
楊令「これで、行者武松は死んだ」
武松「よし、コブシを食おうぜ、楊令。魯智深の腕のように」
この節の初めで、いきなり武松が、兄嫁の潘金蓮のことを思い出すから、今さら、なにを回顧しているのかと思いきや。このコブシが、潘金蓮にかんする業(ごう)だから、楊令がそれを切り落とすことで、武松を解放してやると。
やがて武松は、着脱可能なロケットパンチを手に入れる。調練のときは、木製のパンチを打ちこみ、実戦のときは、鉄製のパンチで無敵になる。楊令の切り方がよかったから(←意味不明)武松は力を落とさずに済んだのだそうだ。
武松は、寡黙でうすぐらいキャラを捨てて、おしゃべりになる。皮肉・雑談に応じて、かるい感じになる。
武松に限らず、北方大水滸では(思い出したら列挙しますが)肉体的なダメージを負うことで、性格が明るくなり、おしゃべりになるキャラが、たびたび出てくる。
作者の胸中を邪推すると、寡黙なキャラは、描くのが難しい。小説は、文字にしてナンボです。マンガじゃないから、表情を見せられない。映画じゃないから、音声もない。だから、しゃべってくれないと、キャラが何を考えているのか分からないし、それ以前に、作中でなにが起きているのか分からない。
不可逆的な身体的ダメージを負うことで、そのキャラにかんして自制していたリミッターが外れる。
きっと作者は、「ほんとうは、こうやってザックバランに喋らせたかったんだよ。オレの脳内設定では、こういうこと言うやつだったんだ。しかし、寡黙という性格設定だから、喋らせることができず、オレが原稿用紙の手前で、検閲して握りつぶしていた。これから晴れて、脳内設定のままに垂れ流せるなー」という、開放感を味わったに違いないと、ぼくには思えてくる。
というわけで、武松は、ただ腕力がある、気のいいおじさんになりました。梁山泊の組織にしばられないから、フラッと旅ができる。強いから、どこに旅をしても死ぬことがない(身の安全について詳述しなくても、生きていることにリアリティがある)。という便利なキャラになりました。
82ページ~
項充の話。樊瑞・李袞という2人に先立たれ、やる気がなくなった。しかし、李俊に励まされて、やる気を出すという話。こういう、すみっこのキャラまで、目が行き届いているんだぜ!という、アピールのような一節。
127ページ~
童貫が、軍の配置をごちゃごちゃ、いじってると、岳飛が登場。
「おれは柴栄(偽名)。百歳だ(偽称)。よろしく」というのが134ページ。
ついでに、劉光世という将軍も、地方軍から禁軍にひきぬかれる。
劉光世のように、ちょっとしたキッカケで、官軍の人材が増えていく。これは北方大水滸をつらぬく、ひとつのパターンなのです。
梁山泊は、原作の108人を出さねばならない。むしろキャラが多すぎて、出すのが大変。しかし官軍には、あまりキャラがいない。
『北方水滸伝』の創意のひとつが、梁山泊において、キャラの加入・戦死というローテーションをさせること。加入するだけでなく、きちんと殺す。すると、キャラが過多になって、持ち場を描ききれないという弊害を防げる。
ぎゃくに官軍は、バランスを取るために、キャラを創作(もしくは激しくアレンジ)して、物語の投入していく。せっかく創作したのだからと、官軍のキャラを温存すると、「梁山泊ばっかり人が死んで、官軍ばっかり生き残る」ことになる。これは不公平。
というわけで、官軍のキャラを投入して、梁山泊の将校と同じペースで殺していくことにする。ぎゃくにいえば、梁山泊の将校を殺したかったら、それに見合った官軍の人材をつくって、物語に登場させる。その官軍の人材は、梁山泊の将校とトレードオフにするのだから、同じくらいの強さや魅力が必要。
戦さに、リアリティ(激戦だったなあという印象)と爽快感(話が前に進んだという手応え)を求めた結果、「こちらも死んだけど、あちらも死んだ」というパターンをくり返すことになった。『楊令伝』においては、趙安と呼延灼を交換する、など。
161ページ~
楊令のもとを、雪のなか公孫勝が訪問する。楊令と、戦後の傷をいやしあって、梁山泊のトップに連れ戻そうとする。しかし、武松の陽気なキャラが不気味すぎて、いまいち話が進まない。
巻2の前半は、武松のコブシがなくなり、岳飛が登場するのがメインの出来事。しかし、まだ話が前に進んだという感じがしない。楊令が、グダグダと禅問答をしており、燕青・武松をまるめこみ、公孫勝をいなして……というところ。