北方『楊令伝』要約と分析(巻2上)

 15ページ~

楊令「酒を飲もう」
燕青「これ、水じゃん。ウソつくなよ。実物が水でも、それを酒だとでも思わなければ、幻王の殺戮稼業なんて、やってられんのだろうね」
楊令「本当は野望でも、それを志だと思いこむのと同じっす」

という禅問答から始まる。楊令が梁山泊に対して懐疑的になり、取っつきにくい人物に劣化してしまった……というのが、ぼくの印象ですが、どうやら作者はそれを意図していないようで、燕青も武松も、へんに物わかりがよく、楊令の言葉あそびに付き合ってしまう。

そのくせ楊令は、梁山泊には戻らない、と駄々をこねる。なんだこいつ。

楊令が使い物にならないなら、呼延灼がトップに、、とも思うが、やはり呼延灼では足りない。しかし、略奪をしている楊令を、トップに迎えるというのは、イヤだなー。梁山泊の復興はできないのかなーと、みんなが悩む。


45ページ~

呉用は、趙仁という人物になりすまして、暮らしている。ほんものの趙仁をほうむって、戸籍を乗っ取るというのは、青蓮寺がやってたこと。今回は、公孫勝がやった。梁山泊は正義の味方で、青蓮寺は悪の手先である、という『北方水滸伝』の了解がくずれて、相互の組織が似ていく。

趙仁になりすました呉用は、方臘に接近する。

梁山泊には国に関する「思想」があるから高級で、方臘には「宗教」しかないから低級である。宗教の「くせに」、ものを考えている。宗教の「わりには」、すじが通っている。という、宗教を蔑視した語調で、物語は進んでいく。なんじゃこら。

このあたり、作者の限界だと思うのだが、「思想」は優れており、描く価値があり、「宗教」は劣っているから、描く価値もない。「宗教」家にみえた方臘のなかに、「思想」家としての側面がのぞくと、呉用(に入りこんだ作者)が、方臘の評価をあげる、という構図になってる。へんなの。

方臘は、「死ぬことが幸せ」という教義から、「殺してあげることが施し」というロジックに飛躍させ、「死を恐れずに殺しにいけば、ウインウインの関係となる」をひねりだす。方臘が「度人」というコマンドを使うと、信者は、命を投げ出して進んでいく。思想には志があって、内面が豊かだが、宗教とは志のない思考停止であり、意味不明で不気味な人だかりである、、というお話。

国について語れば、偉いんかいな、と思ってしまう。

 

 73ページ~

楊令が武松のコブシを切り落とす。
楊令「これで、行者武松は死んだ」
武松「よし、コブシを食おうぜ、楊令。魯智深の腕のように」


この節の初めで、いきなり武松が、兄嫁の潘金蓮のことを思い出すから、今さら、なにを回顧しているのかと思いきや。このコブシが、潘金蓮にかんする業(ごう)だから、楊令がそれを切り落とすことで、武松を解放してやると。

やがて武松は、着脱可能なロケットパンチを手に入れる。調練のときは、木製のパンチを打ちこみ、実戦のときは、鉄製のパンチで無敵になる。楊令の切り方がよかったから(←意味不明)武松は力を落とさずに済んだのだそうだ。

武松は、寡黙でうすぐらいキャラを捨てて、おしゃべりになる。皮肉・雑談に応じて、かるい感じになる。

武松に限らず、北方大水滸では(思い出したら列挙しますが)肉体的なダメージを負うことで、性格が明るくなり、おしゃべりになるキャラが、たびたび出てくる。

作者の胸中を邪推すると、寡黙なキャラは、描くのが難しい。小説は、文字にしてナンボです。マンガじゃないから、表情を見せられない。映画じゃないから、音声もない。だから、しゃべってくれないと、キャラが何を考えているのか分からないし、それ以前に、作中でなにが起きているのか分からない。
不可逆的な身体的ダメージを負うことで、そのキャラにかんして自制していたリミッターが外れる。
きっと作者は、「ほんとうは、こうやってザックバランに喋らせたかったんだよ。オレの脳内設定では、こういうこと言うやつだったんだ。しかし、寡黙という性格設定だから、喋らせることができず、オレが原稿用紙の手前で、検閲して握りつぶしていた。これから晴れて、脳内設定のままに垂れ流せるなー」という、開放感を味わったに違いないと、ぼくには思えてくる。

というわけで、武松は、ただ腕力がある、気のいいおじさんになりました。梁山泊の組織にしばられないから、フラッと旅ができる。強いから、どこに旅をしても死ぬことがない(身の安全について詳述しなくても、生きていることにリアリティがある)。という便利なキャラになりました。

 

82ページ~

項充の話。樊瑞・李袞という2人に先立たれ、やる気がなくなった。しかし、李俊に励まされて、やる気を出すという話。こういう、すみっこのキャラまで、目が行き届いているんだぜ!という、アピールのような一節。


127ページ~

童貫が、軍の配置をごちゃごちゃ、いじってると、岳飛が登場。
「おれは柴栄(偽名)。百歳だ(偽称)。よろしく」というのが134ページ。

ついでに、劉光世という将軍も、地方軍から禁軍にひきぬかれる。

劉光世のように、ちょっとしたキッカケで、官軍の人材が増えていく。これは北方大水滸をつらぬく、ひとつのパターンなのです。

梁山泊は、原作の108人を出さねばならない。むしろキャラが多すぎて、出すのが大変。しかし官軍には、あまりキャラがいない。

『北方水滸伝』の創意のひとつが、梁山泊において、キャラの加入・戦死というローテーションをさせること。加入するだけでなく、きちんと殺す。すると、キャラが過多になって、持ち場を描ききれないという弊害を防げる。

ぎゃくに官軍は、バランスを取るために、キャラを創作(もしくは激しくアレンジ)して、物語の投入していく。せっかく創作したのだからと、官軍のキャラを温存すると、「梁山泊ばっかり人が死んで、官軍ばっかり生き残る」ことになる。これは不公平。

というわけで、官軍のキャラを投入して、梁山泊の将校と同じペースで殺していくことにする。ぎゃくにいえば、梁山泊の将校を殺したかったら、それに見合った官軍の人材をつくって、物語に登場させる。その官軍の人材は、梁山泊の将校とトレードオフにするのだから、同じくらいの強さや魅力が必要。

戦さに、リアリティ(激戦だったなあという印象)と爽快感(話が前に進んだという手応え)を求めた結果、「こちらも死んだけど、あちらも死んだ」というパターンをくり返すことになった。『楊令伝』においては、趙安と呼延灼を交換する、など。


161ページ~

楊令のもとを、雪のなか公孫勝が訪問する。楊令と、戦後の傷をいやしあって、梁山泊のトップに連れ戻そうとする。しかし、武松の陽気なキャラが不気味すぎて、いまいち話が進まない。


巻2の前半は、武松のコブシがなくなり、岳飛が登場するのがメインの出来事。しかし、まだ話が前に進んだという感じがしない。楊令が、グダグダと禅問答をしており、燕青・武松をまるめこみ、公孫勝をいなして……というところ。