史進≒趙雲、晁蓋≒袁紹、盧俊義≒袁術

『漢末水滸伝』を書こうとしています。『水滸伝』を解体して、時代を後漢末にした「翻案」小説 です。

高島俊男氏が「翻案」という言葉を、それぞれの論者がろくに定義せずに使うから、ワケが分からん、と書いてました。ひとによっては、「作者が『水滸伝』を読んだことがある;影響を受けた」というだけで、翻案に含めてしまうとか。範囲が広すぎて、キリがないだろうと。

そこで高島氏がいう翻案の条件のひとつが、人物が対応すること。

この登場人物は、原作『水滸伝』のどの人物の役割を背負わされていて…、と特定することができるならば、翻案と見なしてもよかろうと。

そういうわけで、ぼくなりに翻案するために、『水滸伝』と、三国志の人物を比定する作業を、やんわり頭のなかでやってます。やりつつ、『北方水滸伝』を読んでいます。いまは『楊令伝』4巻の後半です。また、その読本である『吹毛剣』も読んでます。

人物の比定の参考としてです。

まず『楊令伝』本文でいわれるのは、方臘は、張角を祖とした宗教を打ち立てたから、この集団では「角」という文字を言ってはならないと。原作『水滸伝』で、いちばんの強敵である方臘。梁山泊の好漢を殺しまくるから、悪役としては充分。これを、張角に比定して、主人公たちのライバルにすればいいと思うのです。

また『吹毛剣』で、史進趙雲に似ている、という発言を北方氏がされています。
ぼくも、漠然と、史進趙雲に比するという話を、このブログに書いたことがありました。北方氏の小説の影響が、間接的に効いているのかも知れませんが、史進趙雲でいいのでしょう。


『北方水滸伝』における呉用は、『北方三国志』における諸葛亮 に似ています。ひとりで何でもやろうとする。おおきな戦略は描けるけど、実戦になったときの指揮は下手。
もともと、原作『水滸伝』でも、呉用諸葛亮を意識したキャラとして造型されている。呉用を描くとき、自分なりの諸葛亮像というのが、重なってもいいだろう。
ただし、ぼくがやろうとしている『漢末水滸伝』においては、諸葛亮を出すことができない。舞台を、黄巾の乱より前にしようとしている。まだ生まれてないとか、幼いとかいう問題が発生する。代わりに、だれを呉用にしようか。


晁蓋という親分は、ぼくは袁紹だと思ってます。
ドラマの『水滸伝』のDVDを借りてきて、1巻だけ見たのだが、りっぱなヒゲを生やして度量を見せているところは、やはり袁紹。きっと、後漢の転覆を夢みて、いろいろ画策しているのだろう。
ただし、ぼくの『漢末水滸伝』は、なるべく史実と矛盾させたくない。梁山泊のように、目に見える拠点に籠もることはない。目に見えないかたちで、おもに人的なネットワーク のようなかたちで、新しい「国」をつくるのが袁紹だと思う。

『北方水滸伝』は、はじめに梁山泊という目に見える拠点をつくって、童貫にやぶれた。つぎの『楊令伝』では、いちおう拠点をつくるが、それは防御の機能をもった本拠地ではなくて、便宜的な集合場所みたいなもの。いつでも逃げられる。つまり、目に見える拠点 → 目に見えない人的なネットワーク、という順序で、組織のあり方のバージョンを2つ経験した。
ぼくの袁紹は、目に見えない人的なネットワークを、党錮の時代につくる。なんやかんやで(細かい経緯こそが物語の核心だけど、未定です)失敗した。つぎに、目に見える拠点として選んだのが、冀州を中心とした河北4州であると。『北方水滸伝』とは反対の順序で、袁紹は活動するのです。
ぼくが描くのは、史実および『三国演義』がカバーする前の活動だから、冀州に拠って……という話までは、『漢末水滸伝』でやりませんが。


梁山泊の親分として、双璧をなすのが盧俊義。
晁蓋袁紹に見立てて、また文学史上の要請から宋江劉備に見立てるのが仕方ないとするなら、盧俊義はどうなるのか。

盧俊義≒袁術 だと思ってます。

やや脱線しますと、『北方水滸伝』では、原作『水滸伝』の招安というイベントの消化のさせかたが変わった。原作『水滸伝』では、梁山泊が官軍の童貫を追い返したあと、宋からの招安を受けて、方臘の討伐を行う。いっぽうの『北方水滸伝』では、梁山泊が官軍の童貫に敗れたあと、宋とは敵対したままで、童貫が方臘の討伐を行う。方臘のもとには、もと梁山泊呉用がいる。
敵味方の人物が入れ替わることは、物語の構造としては、あまり問題ではない。むしろ、同じ構造を持っている、とすら言えるでしょう。目先のズレに着目するあまり、ちがう物語だと思ってしまったら、負けです。

話を戻します。盧俊義は、原作『水滸伝』では、梁山泊への協力を拒み、梁山泊にいろいろ不便を掛けさせられた結果、しぶしぶ味方になります。『北方水滸伝』で盧俊義は、第1巻から梁山泊の仲間であり、闇塩によってカネをくれます。
つまり、大物である、重要人物である、名声や財力がある、という性質は同じでも、敵味方のあいだを流動する。ひとつの構造のなかで、イリクリがある。

ぼくの『漢末水滸伝』の袁術は、主流派の袁基などとは距離をおいて、すこし生活に余裕があるものの、袁紹の味方ではない。袁紹とはちがう仕方で、やりたいことを実現しようとする(なにをやりたいか、どのようにやりたいのか、というコンテンツについては未定です;構造だけの話をしています)。

袁紹は、なんとか袁術を、自分の活動に合流させたくて、原作『水滸伝』のような、ムチャな勧誘をしてくる。ぼくの袁術は、『北方水滸伝』の盧俊義のように、袁術なりのヒトやカネをもっているが、なかなか合流しない;もしくは最後まで合流しない。
合流したらしたで、原作『水滸伝』にあるように、「なんで、こんなやつが、ナンバー2なのか」と、袁紹の元来の盟友たちに疑問を懐かせるような、情けない人物であったりもする。


袁術を盧俊義だとすると、燕青はだれか、となる。

燕青は万能すぎて、ぎゃくに魅力が見出しにくい、『北方水滸伝』でも万能すぎて困ります。盧俊義への「父子」愛。見た目がよくて、体術も使えて、教養があって。このへん、原作を乗り越えられなかった部分かも知れない。イメージは、『蒼天航路』の初期の曹操のような万能な(万能感のある)若者。

というわけで、燕青は、わかい曹操が適任だと思う。

袁紹の集団からは、宦官の孫ということで虐げられる。そこで、袁紹に対抗するネットワークである、袁術のところに属する。『三国志』の卞皇后伝には、袁術曹操の交友をにおわせる話があるのだし、袁術曹操を近づけよう。ふたりの立ち位置の近さ、思想の近さが、196年の献帝をめぐる争いの伏線となる。

いちど、袁術と密着するのだから、キレイという語感から、紀霊にしようとも思った。しかし曹操にしたほうが、漢末の争乱の伏線としての『漢末水滸伝』は、おもしろくなると思うのです。


書くのが遅れましたが、宋江劉備は、動かしません。

『漢末水滸伝』は、人物の比定については、常識的・多数派の立場を取りながら、その見せ方で勝負するお話だと思ってます。文学研究において、教科書どおりに言われるのが、劉備三蔵法師宋江は、なにもしない(できない)主人公であると。

宋江が、いかに劉備みたいか。これを納得して頂くための描写がどれだけできるのかというのが、生辰綱、じゃなくて生命線だと思います。

宋江に非常に近い暴れ者の李逵は、張飛これも解説本などで、たびたび書かれていることなので、忠実に従います。

関羽は、モデルがたくさんいる。美髯公の朱仝、病関索の楊雄(関羽というより関索だけど)、そして子孫の関勝。ぼくは、関羽=朱仝 にしたい。見た目が関羽だし、初期のころから宋江に関係するし、なにより、李逵に小衙内を殺されて、出奔せざるを得なくなるし。

つまり『漢末水滸伝』において 関羽は、上官の子守をしていると、張飛にその子供を殺されて、(なんらかの経緯をはさんでから)劉備のところに合流する。この因縁ぶかさというか、飲み下しにくい問題のシーンに挑戦せざるを得ないつらさというかが、創作意欲をかきたてます。


かげの主役である、魯智深と武松。ふたりは、いずれも出家して、物語のなかの俗世間から浮いているし、物語のなかでも浮いている。独立したキャラ立ちのエピソードがあるわりには、晁蓋宋江とは、あまり絡まない。水滸伝』における重要人物だが、梁山泊における重要人物ではない、とは高島氏の指摘(だったはず)

『漢末水滸伝』では、わりと河北の話が多くなりそう。劉備が北のひとだし、史進に比した趙雲もそちら。史進もどきの趙雲に出会うためには、北のほうのひとがいい。

そこで思い出すのが、坂口和澄 『正史三国志群雄銘銘伝』の韓当の記事。

「北辺の生まれであり、江東出身の将軍がおおい孫氏集団のなかでは、程普と同様に異彩をはなつ。程普が生まれた地から40キロを隔てるだけである。『三国志』を主題に小説を書くならば、韓当と程普が、若いころ、一旗あげようとして南をめざし、孫堅とめぐり会ったとすれば、おもしろいかも知れない」

これだ。10年越し(そんな経ってないかも)に使える。
宋江とあんまりカラミがないが、冀州あたりを通過しそうな人物。これが、韓当と程普なのです。『蒼天航路』のイメージで、韓当のほうが、顔が横にひろがって丸くて豪快そうなので、魯智深の役をやってもらう。程普は、きびしい軍官という印象があり、また周瑜を芳醇な酒に例えることからも、アル中の武松の役をやってもらう。

魯智深韓当、武松=程普。
これは、ちょっとしたアイディアだなーと、思います。

魯智深・武松が、二龍山にこもって、施恩・張青・孫二娘などと群れる。彼らは、三国志における呉のエリアの人々に演じてもらおう。だれに、人肉の饅頭をつくってもらうのか、これから考えます。


建国の功臣の子孫である楊志は、馬騰にやらせたい。

『北方水滸伝』に出てくる オリジナルキャラの楊令は、馬超となる。強いところと、屈節したところが、うまくはまる気がする。


などなど、『水滸伝』および『北方水滸伝』の人物を、正史『後漢書』『三国志』および『三国演義』の人物に比して定めていく作業を、ぼんやりとしています。こういう作業は、手をシャカシャカと動かしてもダメで、ぼんやりと考えて、フッと思いつくものです。

これをお読み頂いている方で、人物の比定について、イメージをお持ちの組み合わせがあれば、ブログのコメント欄かツイッター、メール(hirosatoh0906@yahoo.co.jp)で教えてください。お願いいたします。