北方水滸伝 全19巻を読了

やっと読みました。『北方水滸伝』。

8巻の途中までは読んでましたが、祝家荘の戦いのあたりで、やや飽きがきて、放置しておりました。再開したら早いもので、1日に1冊以上のペースで読み進め、再開してから1週間とかからずに19巻まで読み終わりました。

思うに、『水滸伝』を原作にした日本の小説って、あまり独自性というか、人物にかんする解釈に広がりがないような気がします。

なにと比べてこれを言っているかというと、『三国演義』です。『三国演義』を原作にした日本の小説は、わりと独自性があるように思えました。これらの小説を、目につき次第、読みあさっていたのは、もう10年前のことですが。人物とか事件について、小説家なりの話の広がりが持たされ、解釈が織りこまれていた印象です。アレンジの多様性をみて、おもしろいなー、自分でも書いてみたいなー、と思いました。

しかし、『水滸伝』を原作にした日本の小説は、わりに作者が『三国演義』と重複する・共通するのですが、いまいちおもしろくなかった。話の省略(もしくは中断)にばかり、目を奪われてしまって、ひろげるというベクトルが薄かったような気がする。

その点で、『北方水滸伝』は、ほかとちがいました。

よく、『北方水滸伝』だけを読んで、「この小説は優れている」という書評めいたことをいうひとがいます。「登場人物のキャラが立っていて」とか、「原作の矛盾が解消されていて」とか、聞いたふうなことを書くひとがいます。しかし、キャラが立っているのは、現代の(商品としての)小説ならば当然だし、矛盾なく読めるというのも、当然の品質。そこをほめて、どうするのか。

もうちょい、まとを絞った「ほめかた」をするならば、こうなります。

三国志文化(受容史)における『北方三国志』よりも、水滸伝文化(受容史)における『北方水滸伝』のほうが、存在感がある!意義がある!と。

『北方三国志』だって、聞いたふうな書評にいうところの、「キャラが立っている」「おとこの物語である」「こころざしの物語である」「熱い」「ハードボイルドである」という条件は、満たしていると思います。ほめる意味での「原作がもっていた原型を留めていない;別物である」という特徴をもっています。

しかし、三国志にかんしていえば、他の作家も、充分にキャラを立たせているし、整合性があって、きちんと完結するし、読み応えがある。あえて、『北方三国志』を持ち上げる理由が、いまいち乏しい(とぼくは思う)わけです。

ただし水滸伝にかんしていえば、他の作家が、のきなみモチベーションを失っていくという外部環境によって、『北方水滸伝』の価値が高くなったと思います。「原作がもっていた原型を留めていない;別物である」という、支持派もアンチ派もとなえる特徴を、やはり備えており、そのあたりは、『北方三国志』と変わらないけれど。

べつに、発行部数がおおいとか、連載が長いとか、それ自体で、作品の位置づけが決まるとは思えません。しかし、『北方三国志』が13巻で終わったのに比べて、北方氏の水滸伝の世界が、3倍の長さに向かっているという側面をみても、作家自身にとっても重要な仕事になっているのだろうし、作品としても重要なものになっているのだと思います。

もっといえば、『北方三国志』は、とちゅうからハリ治療の話に熱中して、ほとんど諸葛亮の北伐が描かれていなかったり、脱線がおおかった。改めて読み返してみると、「あれ?こんなに呆気なかったっけ?」というくらい、展開がスカスカだった。

作家の仕事のめぐりあわせだと思うのだけど、三国志だって、書けば書くほど、書くべきことは増えていくのだから、こういう大作になったのかも知れなかった。しかし、結果的には、水滸伝の予行演習みたいな位置づけになってしまった。

三国志文化における『北方三国志』よりも、水滸伝文化における『北方水滸伝』のほうが重要になったというのは、ただの偶然だと思うけれど、ともあれ、そういう作品だと思うのです。参照すべき・克服すべき「古典」になるのだらば、断然、『北方三国志』よりも『北方水滸伝』なのでしょう。