太行山の山賊、梁山泊の水賊

ぼくの『水滸伝』は、宋江を頂点とした梁山泊の水賊と、盧俊義を頂点とした太行山の山賊という、ふたつの集団の対立・融合?を基軸として、思い描いています。

◆佐竹靖彦『梁山泊』第1章 水滸伝の舞台

梁山泊は、黄河が氾濫してできたときの水たまり。
南北に150キロ、東西に50キロ。琵琶湖よりもおおきい。
済水を通じて勃海湾とつながる。黄河の下流にちかい。大運河と平行する淮河の支流を通じて、淮南につながり、長江にもつながる。交通の要衝で、かつ大きな水たまりなので、歴代王朝の管理がゆきとどかない。

盗賊があつかうのは、塩。
水滸伝』で、宋江集団が塩をあつかったという話はないが。

梁山泊の地域が、歴史上、おおきな役割を果たしたのは、唐末と、12世紀はじめ(北宋末・南宋初)である。
唐末の黄巣の乱は、勃海湾につらなる、梁山泊の附近でおこった。私塩の販売ルートにあたった。

水滸伝』では、黄河の河口にあたる青州に、孔明らの白虎山、魯智深楊志の二龍山、李忠と周通の桃花山がある。梁山泊から勃海湾へ、というこの地域は、唐末の黄巣の乱のエリアと一致する。


宋金交替期に、忠義軍が活躍したのが、太行山。河北の黄土平原と、内陸の黄土台地との境界線である。金朝の進攻に抵抗したひとびとは、「太行の義士」といわれた。
現行の『水滸伝』では、太行山の出身者は、梁山泊に吸収される。


水滸伝』の時代が過ぎると、反乱をやしなう地理的な条件がなくなる。
黄河の流れが南にかわり、梁山泊の水たまりがなくなった。
太行山の松林も、枯れてなくなった。


水滸伝』の舞台は、4つある。
 1.梁山泊から、青州勃海湾へ(泰山のあたり)
 2.渭水の下流にある華州・渭州、少華山(華山のあたり)
 3.南方の杭州・睦州・歙州、江州をふくむ(方臘の勢力圏;龍虎山)
 4.北方の薊州・檀州・覇州・幽州(遼の南の国境、副都の幽州;二仙山)

◆『水滸伝』のふたつの集団

盧俊義が、「不当に厚遇」されていることの違和感を解消することが、ぼくのいまの関心事です。
この佐竹氏の地理の説明を見たとき、梁山泊にならぶ(反乱の拠点として史実における実績がある)太行山の集団というのを、想定してみたくなる。
梁山泊のもとでが塩ならば、太行山のもとでは、鉄、ということにならないかなー。

なにかと目標(仮想敵)にしている『北方水滸伝』は、みずから言っているように、盧俊義が塩を密造して、それを北の遼国に流すというのは、おかしい。遼は、海岸線をもっているから、塩を高く買ってくれないはずだと。
そういう、外形的な不自然さだけじゃなくて、ぼくが気持ち悪いのは、北方のボスである盧俊義が、塩を商材としていること。佐竹氏の説明にもあるように、塩を商材にするのは、南方の水たまりの人々。南方(江州)とかのボスの仕事だろうと。


ここで話を飛躍させるんですが、今日の日本でも、お金持ちは、海抜から高いところに住む。坂の上り下りが大変だろうに(自動車を使うからいいのか)、丘陵に豪邸をかまえる。
いっぽうで、貧乏なひととか、非合法な聚落は、水辺につくられる。

海抜より低いところには、アウトローな世界が作られる。渇いた土地の高いところには、秩序だった世界が形成される。そういう話をするのは、中沢新一『アースダイバー』ですけど、なんとなく感覚的に分からないでもない。


また飛躍して、『三国志』の話をします。
あるべき国家の姿をえがいた蜀は、山に籠もって、秩序をたもつ。
呉は、あるべき国家の姿がぼんやりして、魯粛らの新しい価値観を容認する。孫権は、魏と同盟したり、蜀と同盟したり、なにがしたいか分からない。
山のなかでは、権力志向・秩序志向がつよい。水たまりでは、そういう縛りがゆるい。このあたりは、人類学的な(といってしまうと、ずるいけど)傾向があるのだと思う。『三国志』の話は終わりです。


水滸伝』の話にもどって、
秩序から自由な、「水たまりのかっぱらい」が集まるのが、梁山泊
その対抗者として、つよい価値観や使命感に背中をおされて、わがみちを行くのが、太行山――という対比を描けないか。

太行山とは、具体的には、『宣和遺事』で、花石綱を運ぶ「楊志・李進義・林冲・王雄・花栄・張青・徐寧・李応・穆横・関勝・孫立」のこと。『水滸伝』のなかでは、宋江との関わりがうすくて、独立した故事(列伝)を持っているひと。

宋朝で、それなりに官職を得ている人々は、山系。だから彼らは、たとえば江州に赴任するのをいやがる。ジメジメしたところがイヤ。いっぽうで、江州に徙刑となった宋江は、いきいきする(名前からして「江」だし)


出身地・経歴から、キャラの傾向を分けられると思う。
渇いたところで、形のハッキリしたものを追いかけると、いきいきする人がいる。湿ったところで、ぼんやりアメーバのなかに浸っていると、いきいきする人がいる。
もちろん、つねに、理想の場所にいられるわけじゃない。たとえば晁蓋なんかは、名前の印象からも、彼の行動からも、山系の親分という感じがする。それが、梁山泊という水たまりのなかに入るから、居心地が悪かっただろう。

魯智深は、無秩序が好き。だから、関西から青州に流れて、そこに居着いた。
いっぽうで史進は、関西で山賊になるから、渇いた山系のひとだと思う。太行山をへだてて、盧俊義に共感を懐くことがあっても、梁山泊に積極的に行きたいとは思わない(ような気がする)

盧俊義は、太行山のトップとして、渇いた山系・秩序志向にひととして、描きたい。水たまりに群れることなく、既成の社会秩序のなかで、住みやすい世界をつくるために、いろいろ工夫しそう。

水滸伝』にでてくる108人を、ひとくくりに、みんな水たまり系・アウトロー系にしてしまうと、成立史のなかに見出せる集団に亀裂が見えなくなる。キャラが画一化してくる。それじゃあ、もったいないし、つまらんと思うのです。


まだ、うまく言えてませんが、漠然とした図式ができてきました。