『北方水滸伝』、8巻で停滞中

◆志のもとに、画一化される好漢たち

『北方水滸伝』は、8巻で立ち止まったままです。いちおう15巻までは、買って手許にあるのだが、ちょっと飽きてきた。
なんか、いろんな人物を描くという心意気に相反して、みんな同じ顔つき、みんな同じ性格にしか見えなくなってきて。比べちゃいかんのだが、原典のほうが、おもしろいから。って、やっぱり、比べる相手が、デカすぎるから、アンフェアだな。

『北方水滸伝』の登場人物は、
秘めたる志があるが、それを実現するために行動していない。梁山泊の一派と出会って、行動を開始する。すると障害にあい、それを克服して……
という、1本のレールのなかに、全員が並ばされてしまう。

魯智深なんかは、このレールの先頭にいる。あとから加入した人物は、しつこく順番待ちをする。だんだん、電車ごっこの列が長くなるだけ……。

戦後日本の団塊の世代といわれる年齢層は、いい幼稚園に入り、いい学校に入り、いい企業に入って、同期よりも早く出世したら勝ち組。という、1本のレールを歩いたらしい。これと、やってることが同じでしょ。『北方水滸伝』の英雄たちは。

(『北方水滸伝』のモデルである)学生運動をした大学生たちは、ある日から、サラリーマンとして、今日の日本をつくったという。不思議なほど、会社生活になじんだといわれる。きっと、企業に就職せず、学生運動という共同体が継続したとしても、同じように、粛々と秩序を作って、レールに並んだのだろう。

という、親世代(というか日本人?)の生態がよくわかる小説。

水滸伝』という、地域も時代もちがう小説を読むのは、現実から距離をとった楽しみを見つけたいから。親世代のモノローグを、延々と聞くのは、ちょっとつらい。

 

原典は、梁山泊の敷いたレールと、平行に進むひともあれば、垂直に交わるひとも、脱線して途方もないところを目指すひとも、いろんなタイプがいる。
たしかに、心理描写の文字数は少ないかも知れない。名前しか出てこない人物だって、いるだろう。しかし、まったく一元化されたレールに、むりに押し込めてしまうよりも、想像の余地があって、おもしろい。

ちっとも梁山泊の発展に貢献しない、魯智深。なかなか仲間になってくれない、オオモノ感のただよう盧俊義。宋朝の官僚時代に上下関係があったのに、梁山泊に転職後、ギクシャクしなかったかと心配にさせる、秦明・黄信・関勝・呼延灼ら。

「ひとつの志のもとに集まったからには、それ以前のシガラミや、人間関係など、捨ててきたぜ!」と、画一的な顔つきになって、目標にむかって猛進する、モーレツ社員(というんでしたっけ)の話って、おもしろくないよなー。

◆女性の取り扱いについて

『北方水滸伝』のオンナに対する考え方も、ちょっと肌にあわない。

原典『水滸伝』も、『北方水滸伝』も、オトコとオンナの真理を描こうとしているのでは、ないだろう。「オトコの視点から見たオンナ」の「物語における扱い」というのが、設定されるべき論題であって、それ以上でも以下でもない。

たとえば、少年漫画のヒロインは、必ずしも生身の女性である必要はなく、「少年からみたヒロイン」であれば充分。それを読むのが、オッサンでもいい。
少女がこれを読むとしても、自分をヒロインに同化させるのではない。少女は、いちど(漫画の作者が想定したところの)少年に変質して、少年の目線からヒロインを見る。……のだと思います。


原典では、オンナを嫌悪するかのように、物語から排除する。くどいけど、これは実際の女性を蔑視したのではなく、物語上、そういう扱いがされているということ。
現代日本の『水滸伝』の読者には、女性もいる(女性のほうが多い?)けれど、彼女たちは、原典で排除されるところのオンナになりきって、自分が虐げられる話として、『水滸伝』を読んでいるのでは、ないと思う。「オトコの物語の古典におけるオンナ」という、フィルター(というか、了解)をはさんで、読んでいる(と思われます。ご教示をお願いします)


では、『北方水滸伝』はといえば、原典とは別の仕方(もしくは、一周まわって、同じ仕方)で、オンナを排除している。オンナとは、オトコの志における、弱点・障害。そう扱われる。
オンナが魅力的であればあるほど、オトコは没入して、その没入の仕方が物語としておもしろければおもしろいほど、オンナの有害さが際立つと。

これが、どういう価値観かといえば、「恋愛より部活をがんばりたい」「あの子が応援にきてくれたから、部活の試合で、力が発揮できた」「3年生になったのだから、恋愛より受験だ」「片思いして、勉強に手がつかねえ」という意味での、弱点・障害です。*1


北方氏の人間観・女性観が、そういう幼稚なものだと、言いたいのではない。
北方氏が考えているところの、「小説とはそうあるべき」という了解が、上記のような、人間観・女性観に基づくものであろう、とぼくはいいたいのです。

しかし、三十歳を過ぎたおっさん(ぼく)が、それを読んで、楽しいか?
という問題がのこります。
きわめて、個人的な問題ですけど、せっかくの『水滸伝』を、こういうせまい恋愛観のなかに突っこんでしまうと、残念ながら、スポイルされたと感じてしまう。


たとえば、青蓮寺のひと(名前を忘れた)
宋江が殺した閻婆惜の母に、恋をする。仕事人間だったけれど、人間味を得てゆく。北方氏は、行間で、「青蓮寺にも感情移入してね」「梁山泊のライバルに、魅力を出しているよ。どうだい、物語が立体的になっただろう」と語りかけてくる。それがとてもよく分かる。
分かること自体は、いい。物語の作者と読者は、こういう形で、間接的に語り合うものだから。推理小説だって、作中の犯人と探偵は、どちらも木偶であって、ほんとうに知力を競っているのは、作者と読者なのだ。

しかし、はじめて恋愛をおぼえて、仕事に支障をきたした、というキャラを、好きになれるだろうか、という問題がある。感情移入の装置として、有効に機能するか、という問題がある。
自分が高校生のときなら、きっと夢中になれた。いや、それこそ、勉強・恋愛・部活にいそがしくて、長い本を読んでいる時間はなかったかも。

青蓮寺のひと(名前をまだ思い出せない)は、閻婆惜の母に恋をしたせいで、青蓮寺の仕事に支障をきたすようになる。それを問題視した同僚の「友情」によって、閻婆惜の母(こいつの名前も、記憶から出てこない)は暗殺され、顔面のカワを剥かれる。これによって仕事人間にもどって、梁山泊を追いつめる(のだろう。まだそこまで読んでないです)


本気の恋が、仕事の支障になる。もしくは志の支障になる。という設定から、人物造型にリアリティを獲得しようとする試みは、いまいち楽しくない。

むりな恋愛はあきらめるとか、なんとなく日常のなかで共存するとか、そういう男女関係のほうが、北方氏の考えるところの小説的なおもしろさはなくても、違和感が少なく読めると思うのです。
そして、日常に埋没したら(成熟して大人になるためには、埋没こそ至上命題だとぼくは思うのだけれど)小説としておもしろくない。だったら、むりに描かなくてもいいじゃん。水滸伝』って、そういう話なんだし。八百屋で魚をもとめ、魚屋で野菜をもとめては、いかん。


「志」と「オンナ」(の対立)というのは、『北方水滸伝』をつらぬくテーマだと思う。というか、まだ半分も読んでないのに、「つらぬく」という権利はないけれど、きっとそうなんだろう。

そのいずれにも、娯楽小説の読者として、たのしみを見出せないのが近況です。

*1:進研ゼミをやらなければ、これらの問題を同時に解決することができない。