武松のキャラ分裂を解決したい

水滸伝』を、「現代小説」として鑑賞する場合に、ひとりの登場人物のキャラクターに一貫性がないことが、難点とされることがある。

とくにキャラが分裂しているのが、武松だと思う。

ぼくとしては、現行の『水滸伝』に、それほど改変を加えなくても、ひとりの人間の多面的な振る舞いとして、「そういうひとって、いるよね」というリアリティがあるように描けたら、成功だと思う。

いっぽうを取り上げ、いっぽうを取り去るのでは、ガッカリである。
たとえば、トラを殴り殺す、ガサツな人物に仕立てて、潘金蓮の殺害もガサツだったことにするのは、ガッカリ。ぎゃくに、潘金蓮をちみつに殺害させておき、トラを殴り殺すのも、ちみつな計略を巡らした結果でした、とするのもガッカリ。

かといって、原典のトラ殺しと、原典の潘金蓮と、どちらにも第三の解釈・設定を加えて、「ほら、キャラが統一されましたでしょ」というのは、インチキ。*1

はじめに、高島俊男水滸伝の世界』140ページ「武松の十回」から引用したあと、キャラの問題を考えてみたい。

高島俊男水滸伝の世界』より(1)

水滸伝』故事のうち、もっとも古いのが、十六回の「智取生辰綱」、二十一回の「閻婆惜を殺す」。もっとも新しいのが、七回から十一回にかけての林冲故事。林冲の「風雪山神廟」は、『水滸伝』成立の最終段階になって、文人が書いたもの。

独立故事のうち、七十一回以降にあるのは、燕青が嶽廟で相撲をとる話、李逵がにせ宋江を退治する話ぐらいしかない。

独立故事のなかで、もっとも分量がおおく、独立性がつよいのが、武十回!
ただし武松は、梁山泊の重要人物ではない。魯智深林冲楊志も、『水滸伝』の重要人物であるが、梁山泊の重要人物でない。


武十回は、3つの話の寄せ集め。

①二十三回のトラ退治

②二十四回~二十六回 西門慶潘金蓮ごろし

③二十七回~三十二回 蒋門神退治、鴛鴦楼の殺戮


③は『水滸伝』の百八人のほかの人も登場する。菜園子の張青・母夜叉の孫二娘が出てくる。金眼彪の施恩も出てくる。そういう意味で、ほかの『水滸伝』の話と、だいたい構成や位置づけが同じだから、特異ではない。

特異なのか、②西門慶潘金蓮のところ。ほかの『水滸伝』の人物が出てこない。①は登場人物がトラだけだから、人物が出てこなくても怪しむことができない。

②は、用いられている語彙・文章がほかと違う。この段のみに出てくる言葉があり、この段のみの意味で使われたりもする。水滸伝』の主要舞台は、山東・河北など北方であるが、②に使われる言語・風俗習慣、街並・家屋の構造が、南方を反映している。北方の地理の知識がでたらめである!

文章としては、『水滸伝』のなかで、もっとも濃厚である。言葉や行動、心の動きの綾まで、のこらず写し取らずには已まない執念があふれる。しつこくもない。


ちょっと小休止。

ぼくは思います。文学(という学問)の観点から、武十回が特異であり、なかでも西門慶潘金蓮殺しが特異であり、ほかから浮いているというのは、研究成果が出ているのだから、否定のしようがない。
むしろ、その特異さを楽しむために、訓読をしたい。

しかし、ぼくが『水滸伝』を書くときは、訓読をして、学問から見た特異性をしっかり味わって認識した上で、じぶんというフィルターを通して、(「悪い意味」にならないような意味で)均質化しなければならないと思う。ひとりの作者が、語り直しをすることの意義・必要性・メリットは、そこにあると思うから。

高島俊男水滸伝の世界』より(2)

①トラ退治、③鴛鴦楼の武松は、陽気で無鉄砲な豪傑、ネアカ、魯智深李逵に通じる。
潘金蓮殺しの武松は、冷静で沈着なハードボイルドで、ネクラ。武松が笑うシーンがないし、逆上しなければ、大声も出さない。酒を飲んで、われを忘れることもない。

②の武松は、コロンボばりの倒叙ミステリーで、兄の死を探索する。真相をつきとめ、証拠を手に入れて、第三者の前で自白させて記録をとらせ、西門慶潘金蓮を殺して兄の墓前に供えてから、自首して出る。王婆は、法廷の証人として生かしておく。
はじめから裁判を受けるつもりで、殺害をする。水滸伝』の豪傑は、殺人をしたら高飛びすると、相場が決まっているのに、②の武松だけが違う。自首するのは、ほかに、十二回の楊志ぐらいしかいない。


潘金蓮殺しは、どうやって『水滸伝』に入ってきたか不明。

第二十六回の題目に、「ウンカが役所をおおいにさわがす」とあるが、いまの『水滸伝』にそれに該当する話がない。ウンカが役所で爆弾証言をする話があったが、切り捨てられて、タイトルだけ残ったのだろう。


潘金蓮のキャラは、よく描けている。

うっかり竿を落として、あやまる。王婆と付き合う。気さくで近所づきあいのいい、若いおかみさん。マオトコをするのは、西門慶と王婆の計略にはめられた。

講釈師が、登場直後から、「潘金蓮の得意なのは、マオトコすること」とコメントするのは、倫理的な判断、結論の先取り。もとの潘金蓮は、悪女ではない。かしこく、勝ち気な、下町のおかみさん風の威勢のいい、活発な女。

以上、高島氏の本より。


◆『北方水滸伝』の武松

武松のキャラが分裂しているというのは、北方氏も気づかれたらしく、一貫性の獲得が目指されている。

まず、トラ退治を、潘金蓮殺しのあとに持ってくる。あによめの潘金蓮に、じつは昔から恋をしていた武松は、潘金蓮を犯してしまう。そんな自分にウンザリした武松は、むしゃくしゃして山に入り、死に場所を求めてトラと戦い、勝ってしまう。

いきなりトラに勝つというのは、「現代小説として、イカガナモノカ」という配慮が働いたらしく、武松のコブシは、もとから強いことが、きっちり描かれていると。


話としては成立している。しかし、これは、原典のいずれにもよらず、第三の解釈をつけただけ。トラ退治の豪傑か、裁判に証拠を持っていくコロンボか、という原典の二択をほうりなげて、まったく別ものにしてしまった。

高島氏はナゾとしているが、どうやら潘金蓮の話は、裁判が見せ場のようです。ウンカというガキが、おかしな証言をして、裁判が荒れると。その裁判を盛り上げるための伏線として、潘金蓮西門慶・王婆が、いろいろに動く。

武松が裁判に出ることなく、逃亡してしまったら、どうにもならん。

 

◆武松は一貫性を得られるのか

ぼくが思うに、トラとの遭遇は、とても『水滸伝』らしい。
ふもとの酒屋に、「トラが出るから、いくのを辞めとけ」と言われ、トラ退治したあとは、「ありがとう」と感謝される。

これは、『水滸伝』によくあるタイプの、

・危険があるのに、よく分からないけど、突入する

・困ったひとがいたら、命をかえりみずに助けてしまう

・助けたつもりが、周囲にとって大迷惑だった

・助けた行動を、誤解され、あるいは計略に利用され、窮地におちいる

とか、そういう豪傑の話だろう。

相手が、たまたまトラだったから、殴り殺して終わったけれど、もしも山賊だったら、仲間になるところだ。


いっぽうで、潘金蓮殺しについては、もう兄は死んでいるけれど、「兄を助ける」話だろう。
潘金蓮西門慶を殺すことは、危険にちがいないが、やらずには居られない。困った兄のかたきを、命をかえりみずに取る。しかし、やや独善的な解決策を選んでしまい、周囲に迷惑がかかる。

武十回の武松が、ややキャラとして分裂ぎみなのは、裁判にむけた準備が、カンペキ過ぎるからである。ここに必要なのは、そういう武松を利用して?教唆して?、裁判という場を活用する、第三者の存在だろう。クロマク。

武松は、原典どおりに自分で動いているけれども、必ずしも武松ひとりの意思ではない。という話になれば、異様なまでの、あたまの良さに対する違和感は、減るだろう。
水滸伝』には、そういう、ズル賢いやつは出てくる。たいていは、役人だったりする。最後には、武松が、そいつの悪意も見抜いて、スカッと殴り殺せば、いいんじゃないかな。


武松の裁判ネタに、リアリティを持たせるためのクロマク。宿題です。

*1:『北方水滸伝』がこれなので、後で触れます