武松の分裂病(悲華水滸伝)

武松のキャラ分裂は、『水滸伝』が抱える、やっかいな病気ですが。

杉本苑子『悲華水滸伝』は、武松を病気にすることで、これを解決します。

武松は、瘧〈おこり〉をもち、寒気や震えが止まらない。潘金蓮から言い寄られて、立ち去るべきときに、おこりになるから、逃げ遅れる。

くわえて、武松は、アル中である。

もともと原典『水滸伝』でトラを殴り殺すときも、ふもとの店で酒を飲み過ぎて、判断力を失い、トラのいる山のなかに入っていく。武松が、酒を飲み過ぎるという設定は、原典からあるので、武松がアル中でも、驚くべきではない。

そういう武松は、『悲華水滸伝』では、アル中が進行して、胃から血を吐いたりする。原典では、公務によって、兄の家から去って、潘金蓮を見張れなくなるのだが。『悲華水滸伝』では、酒のせいで病気になって、軍の病院から出られなくなる。そのあいだに、兄が殺されてしまう。

シラフの武松は、緻密な思考ができるのだが、酒を飲むと、めくらめっぽうに暴れてしまう。潘金蓮西門慶を裁判で追いつめるときは、シラフである。『水滸伝』の豪傑らしく、やみくもに暴れるときは、酔っ払っている。ひとりの人間でも、キャラがまるで違うのは、(『水滸伝』の成立史が複雑だからではなく)酒を飲んでいるか、飲んでいないかの違いであると。


武松は、孫二娘がもうけた人食い居酒屋で、生き残ることができる。その理由は、毒が入った酒を飲まずにすむから。護送している役人2名(名無し)は、酒を飲んで、しびれてしまう。

なぜ武松が飲まないか。
上記の病気によって、おこりやら、アル中やらで、酒を飲まないからである。うまく説明がついたものだなあ!と、しきりに感心いたしました。


武松が酒を飲むと、社会が構築したルールを、平気で無視できる。
武松がシラフだと、社会が構築したルールに、とても従順である。

という、整合的な設定が見えてきます。

この、二重人格(というよりは、野生的動物としての人間と、社会的動物としての人間という、根源的な二項対立)が、武十回に詰めこまれています。


たとえば、(武松のせいでなく、武松にとっては不可抗力で)護送役のふたりが倒れたとき、武松が、孫二娘と張青に勧められることには、

護送の役人をこのまま殺してしまえば、これから牢城に行くこともない。魯智深楊志に合流すれば、自由になれるよと。
たしかにそのとおりで、武松は、野生に解き放たれている。

しかし武松は、護送役ふたりを蘇生させてくれと頼む。ふたりは自分に良くしてくれた。裁判において、本来なら死刑になるべきところを、徙刑になるように配慮してくれた人々に申し訳ない。じぶんは徙刑をきちんと受けて、牢城に入って、処罰されるべきだと。


護送役ふたりが、孫二娘の毒薬によって、ぶったおれ、だれも見張っていない状況というのは、武松が「なにをしても、だれにも咎められない」状態である。しかし武松は、だれも見ていないのに、社会のルールに従う。

なぜ従うかといえば、武松がシラフだからである。


『悲華水滸伝』を読んで、改めて気づかされることには、

武松がトラを殴り殺したのは、酔っ払ったうえで、死にたくない一心で、まぐれを起こしただけだと。それが、ふもとの人々にとっては、称賛にあたいする手柄であり、みなが武松に感謝する。

はじめ武松は、ほんとうにまぐれを起こしただけだから、ほめられても困ってしまう。酔って眠くなって、石の上に寝ていたところが、あれこれ事件が起こっただけだと。しかし(酒がぬけて、シラフになると)自分がやったことが、たしかに人々の助けになったことを実感して、祝福にこたえてやる。

トラすら、野生のままのトラではない。通常ならば、人間はトラを恐れて逃げるから、トラは心おきなく人間を殺す。しかし、酔った武松は、トラをまったく恐れない。そういう武松の態度の異常さが、トラを警戒させて、武松に手をかけるのを遅らせる。そのせいでトラは、武松をしとめそこねる。

トラは、動物のトラではなく、「人間が書いた物語のなかで、人間が読むところの」トラである。擬人化されて、人間なみの思考をするトラなのです。そういう「人間くささ」のせいで、トラは武松に負ける。

トラと人間が、同一化している(対称性をもっている)ことは、地元の猟師たちが、トラのかわをかぶって、トラになりすましていることからも分かる。トラはトラではなく、ヒトはヒトではない。相互に行き来できる存在である。

武松に殺されたトラは、『水滸伝』のりっぱな、登場「人物」といえます。途中で死んでしまったから、108人に列することはできなかったが。


ちょっとまとめると、
武松の近辺には、ふたつの正反対の概念がうずまいている。

酒を飲む:社会と断絶してルールを破る:世間の評判なんか気にしない:人殺しも辞さない:無頼漢としての自分勝手を貫徹する:武松が野生のトラそのもの:ヒトみたいなトラ/トラみたいなヒト

酒を飲まない:社会のルールを守る:世間の評判を感じて応じる:人殺しをしたら裁判を受けて刑罰を受ける:自分よりも社会の目を気にする:武松は純粋なヒト:ヒトはヒト/トラはトラで別々

 

『悲華水滸伝』の武松は病気になります。病気によって、ふたつの異なる世界を往復する。武松は、そういうキャラクターです。

オコリになれば、身体的なニーズ(制約)によって、やりたいことができない。しかしオコリがおさまれば、カラダの声を無視して、理性的に振る舞うことができる。

オコリのうちは、うっかりぶつかった宋江を「オンドリャ!テメエ!ナニスンジャ!ワレ!」と叱り飛ばす。しかしオコリがおさまれば、「あの名声たかき、社会的な評判の高い、宋江さまで、あらしゃいましたか」と恐縮してみせる。

酒をのめば、アタマが考えたのと別のことをやり、突っ走る。「はあ?トラ?ぶっ殺すぜ」となる。酒がぬければ、アタマの考えたとおりに行動する。カラダの声よりも、社会のルールを優先する。理解した上で、緻密に行動することができる。「トラは、恐ろしいものとされていますよね。私もそう思います」となる。


描かれ方は、いろいろですが、潘金蓮は、魅力的な女性です。

おそらく、野生の武松であれば、潘金蓮に手を出してしまいます。『北方水滸伝』では、武松は潘金蓮に手を出してしまう。『悲華水滸伝』では、むかしの武松は、潘金蓮に憧れていました。

酒を飲んで、野生と化した武松であれば、きっと潘金蓮に手を出すでしょう。しかし、かろうじて堪えて(潘金蓮から酒を勧められて飲んでしまうが、それでも辛抱して)しなだれかかってくる潘金蓮を突き飛ばします。「あによめには手を出さない。オレは陳平ではないよ」と、社会のルールを貫徹します。

なぜ武松が、マジで潘金蓮に怒るといえば、潘金蓮が社会のルールを破るからではありません。社会のルールを相対化して見せるからでしょう。社会的なルールなんて、特定の限定された価値観だから、破ってもいいじゃないか。むしろ破ったほうが、生物としてのヒトとしては、自然なすがた、あるがまま、あるべきままではないか、とささやくからです。

武松じしんが、野生的なヒトと、社会的な人間のはざまにいる、境界線上にいる、酒のちからを借りて容易に往復してしまう存在だからこそ、潘金蓮が脅威となるのです。潘金蓮を許せないのです。だから、ナマクビにして、目の前から消してしまおうとするのです。

社会的な人間は、野生的なヒトのことを、憎悪するので。なきものにしようと、存在そのものを否認します。その否認する態度こそが、社会的な人間というものの本性。野生的なヒトというものを、抑圧することが、社会的な人間の機能というか、定義そのもの。


話は変わりますが(ほんとうに変わりますが)

『北方水滸伝』の読本『替天行道』では、北方氏がアル中であることを、さかんにいう。酒を飲んで、野生を取り戻しては、自動車に乗りこみ、カーレースに興じる。しかし、酒を抜いて、冷静を取り戻しては、小説を書く。小説を書くときは、酔っ払ってはいないと。

北方氏の小説は、日常的に指を詰めるように(←イメージ)、狂気を秘めている。その狂気は、まるで武松の、オコリかつ泥酔の、自然児の状態のように思われる。しかし、原稿用紙に文字を詰めていくのは、とても理知的な仕事である。だから、自然児にできる芸当ではない。あくまでシラフで、粛々とやっていくことである。だから、小説を書くときは、酒を抜いておくというのは、とてもよく理解できることなのです。