喜劇的悲劇の主人公 くろちび三郎

佐竹靖彦『梁山泊』を読んでます。

宋江は、『水滸伝』では得体の知れない、魅力に乏しい人物となっている。

しかし、『水滸戯』で登場のたびに自己紹介する宋江は、閻婆惜を殺して、灯火を蹴り倒して家事を起こし、徙刑にあったというだけの人物。これが宋江の原型。

いまの『水滸伝』で、梁山泊首領になるべく、人格者として振る舞っているのは、あとから付けたキャラ。原型とは、うまく馴染んでいない。


宋江は「くろちび三郎」であり、張文遠という長身で色白な「三郎」とペアになっている。閻婆惜の気をひくことができず、恥をかいた上に、腹いせにムチャクチャなことをするのが宋江

『宣和遺事』で、宋江が閻婆惜を殺す理由は、ほかのオトコといちゃついているのに、腹を立てたから。『水滸伝』では、梁山泊との関係性をほのめかす手紙を、閻婆惜に奪われて……と、「ココロザシ」がらみの政治的な話になっているが、おそらくこれは『水滸伝』で追加された設定。嫉妬して、閻婆惜もオトコも殺す!というのが、宋江の原型。


嫉妬ぶかくて短慮、律儀ではあるが残忍

というのが、宋江の原型。

これ以外に『水滸伝』で見せる、複雑なキャラは、したまちの下級知識人が、庶民どもに向かって、「道徳を教えてやろう」という、ありがた迷惑を発揮してつくったもの。もしくは、宋江梁山泊のトップにする、という結末ありきで、ご都合主義によって、つくったもの。

張文遠という、正反対のライバルと、ペアで登場して、笑われるほうが宋江。性格・肌の色・機転・性的な魅力など、すべてにおいて宋江がおとっている。笑いものになるという意味で、宋江は「喜劇」の主人公である。しかし、欠点を笑われているのだから「悲劇」の主人公でもある。

笑われるだけでは、ストレスがたまるから、暴発して、物語をひっかきまわす。

水滸伝』の編者が抱えた、「ひとつの長編にまとめなくちゃ」という、仕事上のニーズを取り去って、宋江という人物の原型をさぐってゆけば、こういう整合的なキャラクターが出てくる。


わりとアレンジして、ぼくなりに言い換えたけれど、佐竹氏の本では、こんなことが書いてありました。

宋江のことを好きになれたかどうかは別として、よく理解できました。

晁蓋をこっそり逃がすとか、晁蓋からもらった手紙を閻婆惜に読まれるとか、柴進をたよって武松と遭遇するとか、つぎに花栄をたよるとか……。これらの宋江の行動に、必然性がなかった。つまり、このエピソードがなければ、宋江というキャラが成り立たない、という、強い要請が感じられなかった。

必然性があるのは、閻婆惜を殺して、江州にゆかされるところだけ。つまり『水滸戯』の時代から存在した宋江の設定は、宋江というキャラと同時に生まれたが(宋江の定義に属するエピソードだが)、それ以外は、わりにオマケだという。

ぎゃくにいえば、それぞれの現場に、宋江が居合わせる必然性がない。宋江の手引きがなくても、どうにでもして晁蓋は逃亡できるだろう。武松は、宋江と会おうが会うまいが、きちんと武十回を演じきるだろう。花栄は、彼なりに職場でトラブルを起こして、自立するだろう。閻婆惜は、晁蓋からの手紙を見ようが見まいが、宋江に対して冷たい態度をとったであろう。

これらの「継ぎ目」が、わりと分かりやすいのが、『水滸伝』ですね。