おかしな副将の盧俊義

高島俊男氏のいう盧俊義

高島俊男水滸伝の世界』の単行本(文庫本でない)39ページ~

盧俊義は副大将なのに、取り柄も魅力もない。『水滸伝』の読者で、盧俊義が好きという人は、まず一人もあるまい。

第六十一回から六十六回に、「盧俊義故事」がある。これは、魯智深林冲・武松とまったく性格がちがう。魯智深らは、梁山泊に入る前の個人の活躍。盧俊義は、梁山泊が彼を獲得するために、どれほどの犠牲・手間をかけたかの物語である。盧俊義は活躍しない。

強くもなく、賢くもなく、梁山泊に迷惑をかけ、貢献もしない。しかし第二位になるから、わけがわからん。

金聖嘆は、「盧俊義を英雄に描こうとしたが、呆気を帯びている。絵に描いたラクダのようなもので、バカでかいが、ちっとも立派ではない」という。玉麒麟ではなく、土駱駝であるとも。

 

薩孟武『水滸伝と中国社会』には、
中国で勢力をもつ人間を2種類あげて、紳士(地主階級)と、流亡(その他)とする。梁山泊は、流亡である。劉邦朱元璋も流亡である。紳士である盧俊義が加入することで、梁山泊は紳士階級に認められる。
流亡の「聚義庁」から、紳士の「忠義堂」に変質したのが転換点。

ただし(高島氏いわく)盧俊義が入ったあと、梁山泊が紳士階級のなかで、評判がよくなったことが描かれることはない。

 

高島氏が、薩孟武とは別の説を考えるに。

龔聖与『宋江三十六賛』に、盧俊義のこととして、「大行に風塵した」とある。

太行山(河北と山西の境に横たわる山地)である。この地名が、龔聖与によって書かれるのは、燕青・張横・戴宗・穆横である。梁山泊という地名が見えないから、彼らの根拠地は、梁山泊でなく太行山と見られていたらしい。

宋江が、山東~淮南で反乱を起こしたことは、『宋史』に見える。盧俊義と宋江は、系統を異にする、反乱の集団であった。

『宣和遺事』には、李進義(=盧俊義)が、生辰綱を奪うメンバーのなかにいる。しかしこちらでは、太行山は出てこない。


水滸伝』第十二回の冒頭で、楊志の身の上話をするとき、「関西に流寓した」とある。『水滸伝』では、梁山泊に流寓しているのに、つじつまがあわない。また楊志は、「酒家」という一人称をつかうが、これは陜西の方言である。どうみても、楊志梁山泊とは縁がうすく、関西のひと。


『宣和遺事』で晁蓋は、太行山の十二人と合体して、兄弟のちぎりを結び、「太行山の梁山泊」に落草したとする。太行山は関西、梁山泊は関東だから、おかしい。

太行山系の説話と、梁山泊系の説話が合体した直後の、未熟な姿!


すると、わかるのが、
『宣和遺事』の1つめの話(楊志・李進義・林冲が、花石綱を運ぶ話;太行山系)は、うしろ2つの話(晁蓋宋江が、生辰綱を奪う話;梁山泊系)と関係がない。

登場人物が違うし、場所もちがう。
これが、はじめて合体されたのが、『宣和遺事』である。


水滸伝』のなかで、太行山の集団の話は、消滅する。しかし、もう一方の首領としての盧俊義は、『水滸伝』のなかに残った。太行山の集団の話がないのに、盧俊義が地位だけを保ったから、アンバランスになった。
日本の、高天原系の神話と、出雲系の神話の関係に似ている。

◆ぼくにとっての盧俊義の扱い

盧俊義には、関西・太行山系の首領として、返り咲いてもらいたい。

『宣和遺事』で、花石綱を運ぶ「楊志・李進義・林冲・王雄・花栄・張青・徐寧・李応・穆横・関勝・孫立」は、盧俊義をトップにした人脈を形成してもらいたい。

水滸伝』のなかで、いまいち、晁蓋宋江の「本紀」となじまない人々は、この関西・太行山系ではないか。

関西といえば、列伝の筆頭をかざる、史進魯智深あたりも、関西のひとである。水滸伝』は、はじめ、王進が延安府にむかうから、関西の話なのだ。

 

宋江晁蓋といった、関東・梁山泊系のひとたちの本紀と、盧俊義・楊志林冲史進魯智深といった、関西・太行山系のひとたちの列伝(というより、もはや載記)が並立する。さいごには、関東が関西を吸収する。

という構造をもった『水滸伝』は、どうでしょう。