水滸なのに泳げない好漢たち

梁山泊が、政府を退けて自立できたのは、水塞だからです。

しかし『水滸伝』の好漢の側にも、「泳げない」ひとが、けっこう出てくる気がする。李逵が張順と喧嘩したとき、水没して敗れるのは、印象的な話ですが。張順ほどの(人間ばなれした)習熟者と競わなくても、ふつうに「泳げない」ひとがおおい。

テキストを統計的に調べると、いろいろ言えそうだけど。

方臘の戦いで、死んでいく理由に、「泳げない」が多用されていたような。


現代日本の読者は、運か不運か、義務教育?で水泳の授業がある(気がする)
だから、かけざんの九九を言えるのと同じレベルで、最低限は、泳ぎを仕込まれる。

しかし、ちょっと考えたら気づくけれど、日常生活で、水に落ちる機会はない。海や川は、毎日のように目にするけれど、特定の職業についていない限り、入ることはない。

さっきは水泳を九九にたとえたが、それよりも、微分積分に例えるべきか。日常生活では、まず使わない。もちろん、職業によるけれど。

「成人なら、最低限は泳げるだろう」という思いこみがあるから、『水滸伝』を読んでいて、水没したとき、「泳げない」から慌てる様子が描かれ、「おや?」と思う。


『女子読み「水滸伝」』135ページで、仕立屋の侯健は、運動不足の解消のために棒術を習ったけれど、最期に溺死するのだから、習い事は水泳にしておけばよかったのに、という指摘がある。

しかし、棒なら日常的に習えそうだけど(棒と広場があればいい)、水泳をやるには、特殊な条件がいろいろ揃っていないといけない。思いつきにくい。


水に隔てられた梁山泊は、現代日本の読者が思う以上に、宋朝の領土から「隔絶」した存在に見えていたのかも知れない。『水滸伝』は、そういう物語かも知れない。