中国歴史小説の「和臭」

日本人が漢文を書くと、母国語話者(というより、母国語筆者)でないため、日本語風に文法をまちがえたり、日本語風の語彙を交ぜてしまったりする。

そういうのを「和臭がする」といって、前近代には、教養ある人々のなかで批判された。近代になったら、どうなのかは、知りません。*1

 

現代日本の中国ものの歴史小説は、当然ながら、日本語で書かれている。

当然ながら、文法も語彙も、日本語をつかう。
それはいい。というか、それは当然。

しかし、まるで江戸時代を描いた小説を読んでいるような調子で、書かれていると、ちょっと気持ち悪くなる。上に書いたのとは、別の次元で「和臭がする」。

官職が、なぜだか江戸幕府のものだったり、国字(日本人による創作漢字)を多用したり。登場人物が、日本語にしかなさそうな慣用句を連発したり。


前近代の中国語で書かないにせよ(前近代の中国語で書いたら、現代日本の小説でなくなってしまう。だいいち書けないし、読めるひとが市場に少ない)、あんまり和臭をぷんぷんさせると、小説の世界の外部に、引きずり出されてしまうというか、ガッカリしてしまう。

とくに、仏教に由来する言葉のとりあつかいが、作者の手腕をあらわすような気がする。日本語には、仏教に由来する言葉が、わりと深く浸透しているけれども、それは前近代の中国と必ずしも同じではないから。

水滸伝』には、魯智深のような僧形が出てくるから、ふと油断しがちになるけれど、中国の仏教と、日本の仏教は、これまた異質なものだから、かえって作者の力量を問いかけてくるような気がします。


なぜこんな話をしているかといえば、杉本苑子『悲華水滸伝』は、和臭がきつくて、ちょっと「日本の中国小説」っぽくないから。「日本の日本小説」だったら、『水滸伝』に題材を取らなくても、いいじゃないかと。

ただし、これから読み進めたら、『悲華水滸伝』だって、おもしろくなるのかも知れないし、作品に対する感想は保留です。

*1:和臭がする英語文というのもあるのだろう。発音ではなく、文章として書き付けても、日本人らしい書き方があるのだろう。ぼくは具体例を知りませんが。