「二人の宋江」を融合させる

宮崎市定水滸伝』の第二章は、「二人の宋江」。

水滸伝』の宋江は、史料に出所をもつ人物である。
盗賊の首領として名前が出てくるし、方臘を討伐した将軍としても名前が出てくる。だから、フィクションである『水滸伝』のなかでも、盗賊から将軍へと変化した宋江は、史実に基づいたキャラと認定される。

ところで、1939年に発見された墓碑銘によると、宣和三年、その墓に葬られた折可存というひとには、「草寇の宋江を捕らえた」という事績がある。この肩書は、『水滸伝』の前半で、梁山泊首領になった宋江を思わせる。
宋江三十六人」を思わせる。

『宋史』によると、
  ・折可存が「草寇の宋江」を捕らえる直前
  ・折可存が「草寇の草寇」を捕らえたのから遠く離れたところで
「将軍の宋江」は、方臘の討伐に功績があった。この功績は、『水滸伝』の最後のほうで、主人公の宋江がとった行動に近い。

「草寇の宋江」が「将軍の宋江」になったと考えるのは、時間・場所からして、むりである。ひとりの人間が、離れたところに同時に存在する……という話になってしまう。


水滸伝』では、前半で「草寇の宋江」を描いて、招安を受けるというイベントを経験させたのち、後半で「将軍の宋江」の事績を描く。
つまり、史料などに出てくる「草寇の宋江」と「将軍の宋江」を同一人物と見なして、『水滸伝』がつくられてる。
しかしこれは、誤解である。『宋史』の記述が分かりにくいこと、『宣和遺事』を真に受けすぎたことが原因である。いくら短期間に、同姓同名のひとの記録があるからといって、同一人物と見なしてはいけない。

時間・場所の関係から、やがて折可存に捕らえられる「草寇の宋江」と、方臘の討伐に参加する「将軍の宋江」は、別人である。
宋江」は、ふたりいたと。


ぼくは思います。
史料で同姓同名、活動の時期が重なっているひととして思い出すのは、『三国演義』の劉岱です。かたや揚州刺史の劉繇と血縁関係のある、れっきとした後漢の皇族。かたや、劉備に追い返されるだけの曹操のザコ部将。

こういう「史料の誤読」は、物語を分かりやすくするためには、効果的なこと。登場人物がやみくもに多い*1のは、褒められたことではない。
さらには、同姓同名のひとが出てきて、同時に活動するなんて、作品としては最低。あえて読者を混乱させるトリックに使う以外の、使い道が思い浮かばない。でも、ただの読みにくさを「トリック」として使うなんて、やっぱり最低だな。


物語の登場人物というのは、まったく異質なものを繋げて、ツジツマが破綻したところから、作者の仕事が始まるのだと思います。
たとえば、「武十回」でキャラが破綻しているようにみえる武松。彼の主要なおもしろエピソードを失わず、しかし一個の人間として描いてこそ、おもしろいと思うのです。
歴史物に限らず、たとえば推理小説では、みんなの前で見せる常識人かつ良識者としてのふるまいと、ウラに隠された殺人者としての一面。どっちかが、まるっきりウソでした!というのでは、リアリティがない。同一の人間について、「たしかに、そういう条件がそろえば、こういう行動を取るわな」という納得感がほしい。

落語?とか、マスコミの入社試験で出題される、「三題噺」というのがある。
3つの単語を提示される。この単語というのは、たいていは脈絡がないもの。それを全て使いきって、ひとつなぎの話をつくれと。
「草寇の宋江」と、「将軍の宋江」というお題を提示されて、それをつなげた話を作れというのも、これと同じじゃないか。正反対の属性の宋江が、史料の登場する。それをつなげる話を、智恵をしぼって考える。
智恵をしぼったのは、特定の『水滸伝』の編者ではない。講談師の集団が、民衆すなわち聴衆の集団が、ふたりの宋江をつなぐ話を、意識してか意識せずが、考えてきた。その結果、ぼんやりした『水滸伝』の宋江という主人公ができあがった。

今日のぼくたちがやるべきことは、
水滸伝』の宋江をふたりに分けることではない。草寇は、とことん草寇に。将軍は、とことん将軍に。そんなことは、「だれでもできる」わけだし、文学的な創意は、ここから生まれることがない。
それよりも、より巧妙に、ふたりの宋江を融合させて、文学作品のひとりの主人公のすることだ。ぼんやりして、作品として不徹底に思われる部分があれば、それを改善して、きっちり接着する。「三題噺」を考えるときと、同じ脳みその部分をつかって。

宋江とは、こういう仕方で、ぼくらの創造性を試すキャラなんじゃないかと思います。

*1:水滸伝』の悪口になってしまいました。