柴進と「二王の後」

宮崎市定水滸伝・虚構のなかの史実』によれば、
柴進が、周の天子の末裔というのは、『水滸伝』の編者がいいだしたことで、「宋江三十六人」、『宣和遺事』には、そういう記述がないと。
もともと、名簿に連なっていた柴進が、「柴」姓であることから、連想しただろうと。*1


宮崎氏がいうのだから、そうなんでしょう。
(権威には、なびくタイプ)
いや、宮崎氏がいわなくても、「宋江三十六人」になく、『宣和遺事』にないのは、追って確認できることだから、支持してもいいのだと思います。


ところで、あとの王朝が、前の王朝の子孫を、特別待遇することは、「二王の後」という儒教の儀礼です。漢代に、周の姫姓のひとが、爵位を厚遇されたり。べつに、『水滸伝』における治外法権のような空間を、つくるわけではありませんが。

「二王の後」で検索したら、にゃも氏の、

「その後の魏帝」(『三国与太噺』)
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20101119/1290094527

という、4年半前の記事がヒットしました。
三国魏は、初代の天子が即してから、259年後まで、魏晋革命ののちも「天子の子孫」という扱いを受けたそうです。


水滸伝』を漢末に移植するというイメージを膨らませるならば、殷の子孫として扱われる孔子の子孫(なんのことやら分からないが、そうだったはず)よりも、周の子孫である、姫姓のひとを登場させたい。

「周」という国号も、たまたま一致する。
周のつぎは(始皇帝の秦を意図的に無視して、正統が継承されたと主張するところの)漢。周のつぎは(周宋革命という、歴史上、最後の禅譲という手続によって、建国されたのが)北宋

ちゃんと調べれば、漢末の段階で、どういうイミナのひとが、爵位を得ていたか分かるはず。

*1:宮崎氏によれば、「宋代の信ずべき記録」によれば、崇義公の柴恪というひとが、金軍に殺されたという。つまり、北宋において、周の柴氏が、なんらかの待遇を得て、キャラを立てていたことは、少なくとも記録に残るレベルであったと。