杉本苑子『悲華水滸伝』

杉本苑子『悲華水滸伝』を読んでます。
吉川英治の弟子だという、どこかのネットの記事を見て、興味を持ちました。

いちばんの驚きは、始まりが、林冲と柴進の出会いであること。

原典では、第9回にあたる。

それ以前の、たとえば洪信が伏魔之殿をあけるのは、柴進が家のひとから知らされたという伝聞。それ以外の銘銘伝といわれる、王進・史進魯智深「シン」ばっかりだな)は、回想とか伝聞のなかで、ほのめかされるのみ。

銘銘伝は、『水滸伝』らしい部分といわれるが、バッサリ削除される。とくに魯智深が、寺院の秩序にあらがって、ムチャするところを、著者の杉本氏は、好きじゃなかったんだろうなあ、という憶測をいだかせる。
小説の後半から最後のほうで、てきとうに省略することは、よくある。人間だから。しかし、小説をいかに始めるかというのは、その小説をどのように構想したかという、作品の軸にかかわる部分。わりと作者の思いどおりに、理想どおりに扱うことができる。
その始まりのところで、林冲・柴進という、ふたりの役者に登場してもらう(林冲・柴進は描きたい人物だが、史進魯智深は描きたいと思いにくい)という扱いは、作者の態度を、明確にあらわしています。


ところで、杉本氏の『水滸伝』は、なんだかキレがない。

うまく言えないけど、「登場人物は不幸にならない、必ず救いがある」とか、「残虐なシーンは、うまく回避してもらえて、かつ『水滸伝』のストーリーとくらべて狂いがない」とか、「人間の悪意というものは、あくどくても、ちゅうくらい(苛烈にはならない)」というか。

とても安心して読めるけれど、それって『水滸伝』なのか?

水滸伝』は、他人から飲食物を出されたら、原則として毒物だから、ひどいめにあう、という世界観の話ではなかったか?という疑念がぬぐえず、ちょっとガッカリしているところです。まだ1巻を読んでいるので、断定は避けますが……。

作者が優しいと、『水滸伝』はダメになるような気がします。