西洋近代の小説と『水滸伝』

西洋近代における小説というのは、

ひとりの作者がいて、創造性を発揮して、はじめから終わりまで責任をもって、書き上げるもの。ひとりの作者がいるのだから、文体は統一されている。ひとつの作品においては、まがりなりに一貫性のあるテーマ・キャラが設定されている。ひとりの作者が、ちがう作品を書くときは、作品ごとにテーマ・キャラが違うかも知れないが、ひとつの作品においては、一貫性が保障される(べきである)。

いくつものアイディアとか、先行作品とかを取りこむことはある。モチーフとか、オマージュとか、リメイクとか、表現はなんでもいいです。しかし、それらの「石」を集めてきたら、「コンクリート」で固める。コンクリートは、石の隙間に流れこんで、ひとつのカタマリを形成する。

そのカタマリは、簡単には割れない。コンクリートだけが剥がれて、石のかたちに逆戻りすることはない。むしろ鑑賞者は、
「ここまでが、どこどこで産出した石だな。ここはコンクリート
と、レントゲン写真をとって分析することを、研究者としての使命(もしくはお楽しみ、もしくは国語の宿題)とする。

 

水滸伝』を読んで、上記の西洋近代における小説という、なかば現代日本で常識に属してしまっている定義が、がんがん揺さぶられる。

まるで、石をひろいあつめて、それをロープで縛っているだけである。

文体は、場所によって違う。作者をひとりに特定することに、さほど意味はない。羅貫中のパーソナルなプロフィールを追いかけたところで、なんにもならん。キャラだって、平気で分裂する。必然性のない、盲腸みたいなエピソードがあるかと思いきや、骨がなかったり、腰斬されても生きていたりする。

石どうしは、いちおうは大人しくまとまっているが、石とロープを区別することは、あまりに容易だし、ロープを切ることだってできる。素材の石が、石のまま、べつの場所に落ちていることもある(『宣和遺事』とか『水滸戯』とか)


ぼくたちが、こういう 西洋近代における小説を相対化するものとしての『水滸伝を楽しむならば(読んで書いて楽しむならば)、石とロープを、ていねいに選り分けて、そーっとロープをはずし、しかしそのロープも大切に保存して、どこを縛っておいたか写真を撮っておき、復元できる状態を保っておく。そして、じぶんなりに石を組み直して、「これは便宜的に、ぼくが付け足したロープです」と分かるように、色ちがいのロープを用意して、石の上に、そうっと懸けてゆく。

まちがっても、

「石とロープとが、現在の形で結びつくことに必然性がない。爆破せよ!」

という蛮勇を発揮して、ロープを焼き払い、飛び散った小石をさらに砕き、コンクリートのなかに流しこんで、オレなりのカタマリを作るなんてことは、してはいけない。それでは、せっかく、西洋近代における小説を相対化するものとしての『水滸伝で遊ぶ意味がない。


この点で、吉岡平『伏龍たちの凱歌』とか、石川英輔『SF水滸伝』というのは、ぼくが上で書いた、マナーをわきまえた『水滸伝』の取り扱い方をしていると思いました。

まるで考古学者が、器用に、遺物から過去の姿を推測して、博物館の展示にしたてる、というような感じだった。対象物の性質をわかった上で、経緯をはらって、取り扱っているというか。

水滸伝』を自分なりに書こうと思ったとき、外部のない、ひとつの完成された作品をアレンジするのだから、事前調査は、わりにすぐ終わると思った。だって、原典を読めば、それで終わりだろうから。しかし、上記で例えたところの石には、いろんな種類や産地や成立年代があり、ロープの垂れ下がり方やほころびが、わりと興味をそそるものであるし、奥がふかいなーと思うようになりました。