『水滸伝』を語り直したい

はじめ、馬超の話を考えた

水滸伝』は、はじめから「書きたい」とまでは、思わなかった。
馬超の話にひきつけて、同人誌用に、原稿用紙500枚くらいの話を
書こうと思ったのが、始まりでした。

水滸伝』がもってる物語のおもしろさを(レヴィストロースの神話分析なみに)解体して、馬超の関中十部(十将)の話につけかえ、ふくらませるという実験をしたい。腐敗した(ような気がする)中央権力に対して、志をもった人々が集まって対抗して、そして結末は……というのが概念レベルで似てるし。
せっかく『水滸伝』を元ネタにするなら、『眭固伝』とか書きたいけど、1冊の本にする(原稿用紙を数百枚分かく)自信がないので、ボツ。

水滸伝』を語り直したい

でも、『水滸伝』を読んでいるうちに、馬超に組み替えるんじゃ、もったいないと思うようになった。文章修行のために、『水滸伝』の語り直し(小説化)をしたい。

三国志』なら、周辺の史料の探索が大変だけど、『水滸伝』は主にフィクションなので、駒田信二訳だけを出典にして、自分なりに整理する。現代小説として、つじつまを合わせて、話を整理する作業。

いちばん取り組みたいのは、キャラ削減。『大宋宣和遺事』は、主人公が36人らしいので、この人数まで絞りたい。登場人物を追うのはラクだけれど、ストーリーにそれほど省略がない、というのを作りたい。現代小説としての整理は、北方『水滸伝』ほど独自性を発揮しなくても、できるはずで。
大衆小説の模範は、吉川英治。彼の文章が、戦後のスタンダードになったからなのか、それとも元来 普遍性のある書き方なのか、よくも悪くも「くせがない」感じがする。吉川英治の語り口(改行とか台詞の入れ方とか)を手本にして、きちんと120回分を終わらせたら、きっと小説がうまくなるはず!

宋代の制度史を知らないからこそ、『水滸伝』の語り直しを楽しめる。宮崎市定水滸伝_虚構のなかの史実』なんて、有害図書です。物語をつくるとき、周辺知識や歴史像があると、作中に反映したくなり、作業が歪むと思う。たとえば、『三国演義』の文学性のみに浸った語り直しは、もう至難なわけで。

潜在的なライバルとして

北方謙三氏の『水滸伝』は、おもしろいけど、「それなら、ぼくもやりたい」という思いも、同時にわいてくるわけです。
水滸伝』は現代日本の読者にとって、男女関係の描写がない、公孫勝の妖術が変、宋江の魅力がマジ不明、人肉饅頭を受け付けられない、武松が虎と戦う意味がわからん、梁山泊の補給路が不完全、、とか北方謙三氏は考えたようだが。そういう意味不明さが魅力で、ほっこりするんだと思うけど。
なんとなくの印象として、男性が他人の小説を読むときは、「いつかオレも書いてやる。潜在的なライバルとして偵察のために、目を通しておこうかな」という態度になりがち。女性は、いち消費者として、きっちりたのしめるという感じ。
幸いにして、文章の分量だけは、こなせるようになってきたから、きっちり、顕在的なライバルとして、かってに旗揚げをしようと思います。