梁山泊=今日の日本企業

◆井波律子『水滸縦横談』211pより

水滸伝』の時間について。

第一回は、嘉祐三年(1058)、洪信が魔王を解き放つ。
物語は、徽宗が即布いた直後(1100)から始まる。
方臘の乱は、宣和二年(1120)から翌年にかけて起こる。

108人の豪傑は、まったく老いない。
扈三娘や燕青は若そうだが、それ以外は、30代の壮年に見える。
もしも魔王が解き放たれたとき、すぐに産まれたなら、物語が始まるまでに40年を経過している。登場したときは壮年でも、物語が終わるころには、50代の老年にさしかかりそう。
三国演義』は、きちんと老いるのに。

超現実的な存在である彼らは、現実的時間の浸食を受け付けない神話的な時間のなかに生きており、変化も老化もしない。『水滸伝』の時間は、不老不死の魔王が活躍を演じる、神話的な時間である。

◆『北方水滸伝』を読んで思うこと

『北方水滸伝』には、きちんと年表が設定されており、北宋の滅亡までの年数を計算して、原典から20年ほど前にずらされているようだ。
でも、ぼくが問題にしたいのは、そういう、「あたかも歴史小説のような」創作の痕跡ではない。というか、歴史小説としての操作を楽しみたければ、三国志で、じっくりやればいい。

『北方水滸伝』は、本人が創作のきっかけとして、大学4年生のときの学生運動があったらしい。志を語って、機動隊と激突するという。
だから(と安易に決めつけるべきでないが)、『北方水滸伝』の登場人物は、だいたい、日本人の22歳~23歳のような年齢というか、社会的な段階にあるように思う。

万能感・有能感が、まだ残されている。将来・未来は無限だと思っているからこそ、理論的・理想的なことで悩む。そして、物語に登場する直前や、初登場のときに、人生で初めての挫折を経験する。
これはちょうど、大学生が就職活動でうちひしがれるとか、新社会人として苦労するとか、そういう社会的な段階を思わせる。もしくは、大学院に進学しても、「オレの進路はこれでいいのか」、「本当にやりたかったことは、こちらか」と、もやもやする。

作者が、若いころの自分を投影して、日本の読者のために書いたところ、日本の読者に受け入れられた、というのが、時間・年齢という観点から見たときの、『北方水滸伝』の特徴だと思う。

 

◆ぼくの考える『水滸伝

原典の『水滸伝』は、井波先生のいうとおり、みんな30代の壮年である。そして、108人のなかには女性が3人いるけど、ほぼ「男社会」。
また、家族がしがらみになり、放りだしてくる。いちおう梁山泊にも家族が住めるのだが、あまり話にとって重要な役割を果たさない。

この環境が、どこに似てるかといえば、日本の会社だ。
日本の会社は、「女性の『活用』」なんてことが、わりと先進的とされる大企業で言われるほど、まったくの男社会だ。

戦力になるためには、20代の前半ではムリで、そんなでは地煞星として扱われない。初めて役職をもらうのは、早くても30代の直前。結婚の適齢期にさしかかり、ちょうど結婚相手のことを、物語中で気にする。
天罡星になれるのは、40代。早ければ、30代の終わりくらい。彼らこそが、企業戦士(死語)の主力である。結婚して、家族がしがらみになる時期。

役職を流用して、ほかの組織に転職してくるのも、この年齢の人たち。それより若ければ、転職先でゼロからスタート。これより老いれば、べつの組織に適応できない。もしくは、一芸を任される局所的な人材として、余生の暇つぶしの転職をするくらい。

男社会で、20代末~40代前半が活躍して、家族は登場しない。
梁山泊は、会社に見えるのです。
会社というのは、無時間(時間が流れないという前提)の組織です。営業ならば1ヶ月、経理ならば1年、研究開発なら1商品(3年)といった、時間の周期こそ違えど、時間の経過というのは、加味されない。決算を1回終えたら、それでリセット。せっせと機械的に、同質の時間をくり返す。
ただし、永久に使える燃料がないように、人間は老朽化する。だから、定年制度を設けて、組織の「壮年ぶり」を維持する。「法人」という人格は、そういう不老不死のバケモノです。

梁山泊が、最後の方臘の戦いで、バタバタ戦死・引退していくのは、登場人物が年を取ったからではないか。物語の都合で、強制終了させたという批判があるけれど、じつは違う。世代交替まで考えて、人材を集めたなら、梁山泊は、あんな終わり方をしなかっただろう。しかし、現在の主戦力の壮年ばかり集めたから、耐用年数を過ぎたのだ。
田虎・王慶の討伐は、彼らに時間を過ごさせるという意味で、リアリティを高めるために役立っている。たとえ、百回本の後から、蛇足のように付け足した部分であっても。