北宋末=資本主義の末期

◆何でもカネで買える時代

水滸伝』の解説本を読んでいると、北宋末というのは、都市化が進み、市場が発達した時代だという。なんでもカネで買える時代だと。
北宋の最後の皇帝・徽宗が、国を滅ぼした原因として、自身の風流趣味のために、大量のカネを注ぎこんだことが指摘される。つまり、天子という地位は、政治的・宗教的な意義を忘れ去られ(実際に忘れてはいなかろうが)、ただ無尽蔵に搾取できる特権としてだけ、扱われた。だから(女真族の動向も関係するけれど、単純化すれば)北宋の王朝が滅びたと。

なんでもカネで買える時代とは、人間関係が希薄になる時代。というか、人間関係を希薄にしても、飢えずに快適に過ごすようにするため、貨幣というものが発明された。
カネの影響力が強くなって、人間関係が希薄になるのは、貨幣の副作用ではない。本来の効能である。ちょっと、つよく効き過ぎているという側面は、当然ながら、あるだろうけど。

水滸伝』に出てくる高官、のみならず地方役人まで、みなカネで動く。面会のための取次から、刑罰の軽減まで、いずれもカネで人間を動かす。社会が不安で、人間を信頼できないから、「流動性」ある財が好まれていると。
地縁・血縁とか、官僚組織とかに、頼るべきものがないから、みな、カネを求めていると。流動性選好というやつです。

これが、梁山泊の人々から見ると、「腐敗」に見えるわけです。
べつに、『水滸伝』に出てくる悪役たちは、心根が腐っているから、カネばかり欲しがるのではない。人間の生存本能として、カネという資本を頼りにするのが、もっとも合理的な選択だからこそ、カネに群がる。『水滸伝』は、それを、腐敗だ!不潔だ!といって切り捨てるが、そこまで簡単な話ではない。

梁山泊に集結する理由

カネ以外の資本をもとでに、生活したい人があつまる。
地縁(梁山泊という生活空間)、官縁(ぼくの造語;指揮命令系統が正しく機能することによって生まれる生活基盤)などの社会関係資本をもとめて、既存の共同体から、脱出してくるのだろう。
もと軍人が、梁山泊のなかでも軍人をやるというのは、より効率のいい組織を作り直したいという欲望の発露であろう。

三国志では、ひとつのカギになる、天子に対する態度というのは、『水滸伝』の人々には、あんまり関係ない。なぜなら、官職が低いから。
童貫・高俅といった連中は、天子との関係性において、自分の生活基盤が決まってくる。彼らの振るまいは、梁山泊のような下位から見れば、いろいろな側面がそぎ落とされ、ただの腐敗にしか見えない。
その意味で、途中で宗旨替えをする宋江は、天子との関係性を、よってたつ所にしたいと、途中から言い始める。このあたりを、「忠か、忠でないか」という抽象的な議論ではなく、もっときっちり描きたい。

というのを、バブルは歴史の教科書で習うレベルで、
少し上の世代が、「就職氷河期」といって社会を呪うのを見て育ち、
社会人になって数年で、リーマンショックを見て、、
という、ぼくが書く『水滸伝』に織りこみたい。
『北方水滸伝』が、学生運動の再生だったように、いま、自分が書く意味を、原典のなかに見出して、味つけしていく作業となります。