『水滸伝』のテーマ設定

いろんな解説本を読んでいる段階で、まだきちんと通読してないんですが、いまイメージする、『水滸伝』のだいたいの骨格を書いておきます。こういう、疎いときのほうが、かえって「よくわかる」こともある気がする。

水滸伝』は、ひとつの勢力の盛衰(生まれてから死ぬまで)の典型例として、読めばいいと思う。

1.好感たちの登場

はじめは、なんとなく才覚をもったひとが、やんわりと群れている。おそらく、そこには「志」みたいなものはない。なりゆき上、いっしょになったり、離れたりする。はじめは、梁山泊という拠点すら、彼らの持ち物ではなく(←それすら知らなかった)、登場人物が、パラパラと出てくるだけ。

三国志』でいうなら、曹操とか袁紹の青年期。霊帝の時代あたり。

2.群雄の離合集散

やがて、王倫から梁山泊を奪う。アジールのような空間は、地理的な要件がつくりだしたのであって、やはり「志」じゃないと思う。同じような山塞がいくらでもある。梁山泊が、ワン・オブ・ゼムであるというところが重要。特権的な地位として扱うと、物語が息切れしそう。

なんだか、途中で出番がなくなる?魯智深なんか、対等かそれ以上の場所を主催していて、決して仲間ではない。花なんとか(←まだ分かってない)と、3回戦うやつも、群雄の離合集散のように捉えて楽しみたい。アメーバのように、くっついたり、離れたりする過程に、おもしろみがあるんだと思う。

三国志』でいうなら、曹操兗州入り~袁氏の滅亡まで。

3.体制の完成

チョウガイ(←漢字が出せないw)が死ぬと、宋江が借りのリーダーになるが、わざわざ北京だかに出かけて、ロシュンギを連れてくる。
これは、のちに「宋江体制」が成立したという結末からさかのぼって眺めると、無意味な二転三転のように思える。しかし、ある断面で見れば、チョウガイの亡き後、まじで梁山泊は動揺したんだと思う。よく言われる、「なぜ宋江がリーダーなのか、よく分からない。魅力に乏しいし」というのは、おそらく(物語の世界のなか的には)真理で、宋江に、そこまでの指導力がなかったんだと思う。

ロシュンギを、敢えて外から連れてこようとするくらい、リーダーが空席だったはず。初代皇帝が崩じて、国が傾くけれど、皇太子が凡庸だから、有力な臣下が、つぎの君主を目指して、せめぎあう。。という話なんだと思う。

最後は、宗教的権威(108人の序列を書いた天のお告げ)によって、やっと宋江体制が確立しましたとさ、、というふうに、ぼくには見える。

三国志』でいえば、三国鼎立、それぞれの天子即位。

 

だから、(ひとの水滸伝をトヤカク言うべきじゃないけど)はじめから宋江に魅力を備えさせた『北方水滸伝』は、予定調和的で、ちょっと残念。まだ、チョウガイが死ぬところまで読んでないから、どうなるか知りませんが。

『北方水滸伝』は、1巻からロシュンギが出てきて、梁山泊の経済的基盤のために、伏線としてでも協力してくれる。これも予定調和的で、ネタがもったいない気がする。

4.勢力の滅亡

宋江が招安を受け入れたことについて、古今、いろんな読者が論じてきたのだと思うけれど、、ぼくは、宋朝の権威をかりて、梁山泊を安定させたのだと思う。その結果、国家の先兵として大活躍し、かつ人材が摩耗していくのは、おもしろいなりゆきで。

せっかく書くのなら、十把一絡げに殺すのではなく、きちんと殺したい。108人の勢揃いまでは、約束どおり全員を生き存えさせ、政府のための戦いのなかで、「ちゃんと殺す」というのを、やりたいと思ってます。

こういう1つの集団が、つぎの王朝の母胎になるのか、ならないのか。おそらく、その集団自身ではなくて、倒すべき王朝のがわの状況によるのだと思う。北宋が、どういう国だか、ほんとによく分かってませんが、まだ滅びるべき時期ではなかったんだなーと。

だいたい王朝が、完全に外部からの圧力だけで、倒れるのって(異民族による進攻を除けば)あんまり例がないのだと思う。だから梁山泊は、どれだけ自主性を発揮しても、北宋のなかの一集団だったのだと。

三国志』でいえば、魏晋革命から、呉の滅亡まで。

 

自然発生的に人材が群れて、拠点を得て、周囲のライバルを倒して、政治体制を曲がりなりにも確立して、歴史の構造のなかに飲みこまれ、摩耗して消えてゆく。そういう、人間の集団や活動の、ひとつの典型を描く、、というのが、
ぼくのイメージしている、現時点での『水滸伝』です。

 

水滸伝』とは、どういう話なのか。
そういう、テーマ設定に関わるおおきなところで、
水滸伝』に詳しい皆さまのご意見を聞かせて頂けますと、幸いです。