誰が小衙内を殺したか/李逵の暴力

笠井直美氏の「誰が小衙内を殺したか―『水滸伝』における「宣言としての暴力」の馴致」(『水滸伝』の衝撃』)
を読みました。気になったので、書き換えながら抜粋します。
笠井氏の論文を、レジュメのようにまとめたものではありません。ぼくがあとで読みやすいように、アレンジしたものです。気になった方は、元の論文に当たってください。

◆だれが小衙内を殺したか

だれが小衙内を殺したのか。
水滸伝』本文で、呉用・雷横は、「宋江の命令で」という。
柴進は台詞で、小衙内を殺せと命じた人物を、明示しない。
李逵は、「晁蓋宋江の命令で」という。
宋江は朱仝に、「呉用の計略でした」と説明する。
その場にいたはずの呉用は、宋江を否定も肯定もしない。
本文だけ読めば、指示命令の主体・ありようは、確定できず。


笠井氏が推論すれば、

宋江は、朱仝の状況(小衙内を預かっている)ことを知らない。
宋江は、朱仝の状況を踏まえ、策を李逵に与えることができない。
晁蓋宋江は、(どんな手段を使っても?呉用に全権委任して?)朱仝を味方にしろといっただけで、小衙内を殺せとまでは言えなかろう。
小衙内を殺せと具体的に言えるのは、呉用呉用がそれを言うとき、「宋江の命令だ」と入っても不思議ではない。
……という可能性もある。


笠井氏の関心は、『水滸伝』のテクストが、特定の種明かし(だれが何をいつ言って、李逵が小衙内を殺すに至ったか)をしないこと。

指示・教唆した人に責任を問うという法体系に、現代日本の読者はおかれているが、『水滸伝』はこの法体系にない。李逵が殺したことは明示するが、だれが指示・教唆したかは、あまり『水滸伝』で問題にされていない。

李逵は、「たっぷり殺してスッキリ」して、「州県を襲うと聞いて嬉しい」と公言する、残酷で橋瑁な人物。ひいき目に見ても、正当化できない。

日本で受容されてこなかった『水滸伝』には、
木下英雄氏の「『水滸伝』の世界」曰く、
「無法者のなんとも弁明の余地もない凶暴さは、それとして存分に発揮されていながら、そこにまた不思議な贔屓が寄せられることの格別なおもしろさ」がある。

◆宣言としての暴力

ベンヤミン「暴力批判論」(岩波文庫1994)にある、「『大』犯罪者のすがた」が、李逵に該当する。

ベンヤミンは、暴力を単なる手段と見なし、目的によって、その暴力の正しさ・不当さを判定するという考え方を批判する。つまり、「正しい目的のために振るった暴力であれば、残虐さはリセットされる」という、一見すると通りのいい立場を、ベンヤミンは拒絶する。

近代法には、「いっさいの暴力を、権利主体としての個人からは奪いとる」傾向があり、「個人と対立して暴力を独占しようとするインタレスト」がある。

いっぽうで、近代法と対置される「『大』犯罪者」が、なぜ民衆から讃歎されるか。「『大』犯罪者」が、正しい目的のために、暴力を振るうからではない。「『大』犯罪者」が、法の手中にない暴力だからである。「『大』犯罪者」が、暴力を独占しているはずの公権力の枠外に存在する暴力の存在を誇示するからである。「『大』犯罪者」が、公権力・法体系をおびやかすから、民衆は共感するのである。


李逵の暴力は、目標に到達するための手段ではない。法を維持するための暴力ではない。法によって、人々の関係を、確定したり調整したりするための暴力でもない。意思を表明するための暴力でもない。

水滸伝』で、正義を達成するための暴力を、好漢たちが振るう。しかし李逵の暴力は、これではない。李逵の暴力は、無目的・無方向に暴発するものである。


梁山泊は、李逵の暴力を、手段のために利用しようとする。しかし、李逵がメチャクチャにして、危機に陥ることがある。

読者が、李逵の暴力の過剰(ひどすぎる)ことに嫌悪感を持つとしても、それは、本当に過剰さに対する嫌悪感だろうか。
魯智深が肉屋を殴り殺したり、武松が殺戮したりするのも、過剰には違いない。生辰綱の強奪も、べつに正義を目的としてないし、過剰である。

 

小衙内殺しは、李逵の無目的の暴発を、たまたま梁山泊が、目的(朱仝を仲間にする)のために、うまく利用した結果にすぎない。

宋江呉用には、朱仝を味方にするという目的があった。
李逵には、呉用とは無関係に、無目的の暴力があった。

李逵が暴発した結果、たまたま呉用の目的の役に立ってしまったので、「呉用李逵を教唆した」ように見えるが、それは因果関係の強引な結びつけである。両者は、あんまり(もしかしたら、全く)関係がない。宋江呉用に、小衙内を殺させた責任を問おうとしても、ムリな話である。

このあたりが、論文のタイトルの「馴致」にあたります。


李逵の取り扱いについては、おもしろい話なので、じっくり考えます。