水滸伝訓読:第110回(5/5)

◆宿太尉が宋江を、方臘討伐に推薦

宿太尉 次日の早朝 入內す。天子 披香殿に在りて百官文武と事を計するを見る。正に説く、
「江南の方臘 耗〈乱〉を作し、八州二十五県を佔據し、年を改め號を建つ。此の如く反を作し、自ら霸となりて尊を稱す。今 早晩に兵 揚州を犯さんとす」
天子 乃ち曰く、
「已に張招討・劉都督に命じて征進せしむ。未だ次第を見ず」
宿太尉 班を越えて奏して曰く、
「想ふに此の草寇、既に大患を成す。陛下 已に張總兵・劉都督を遣はす。再び征西して勝を得たる宋先鋒の、この両支の軍馬を差はして前部と為し、勦除せしむ可し。必ず大功を幹てん」

天子 奏を聞きて大いに喜び、急に使臣をして省院官に宣して聖旨を聽かしむ。そのとき張招討・從耿といふ二參謀、亦た保奏を行ひ、宋江のこの一干の人馬を調して前部の先鋒と為さんとす。省院官 殿に到り、聖旨を領し、隨ちに宋先鋒・盧先鋒を宣取し、直ちに披香殿下に到り、天子に朝見せしむ。

宋江と盧俊義が、任命される

拜舞 已に畢はり、天子 敕を降し、宋江を封じて平南都總管・征討方臘正先鋒と為す。盧俊義を封じて兵馬副總管・平南副先鋒と為す。各々金帶の一條、錦袍の一領、金甲の一副、名馬の一騎、綵緞の二十五表裏を賜ふ。
其餘 正偏の將佐、各々緞疋・銀兩を賜ひ、功次有るを待ちて、名に照らして陞賞し、官爵を加受す。三軍の頭目、銀兩を給賜す。
都て内務府に於いて關支し、限を定めて目下に師を出し起行せしむ。
宋江・盧俊義 聖旨を領し、就〈すなは〉ち天子に辭す。

◆金大堅と皇甫端を、天子に奪われる

皇上 乃ち曰く、
「卿らの数内に、この能く玉石・印信を鐫〈ほ〉る金大堅有り。又 この能く良馬を識る皇甫端有り。此の二人を留めよ。駕前に聽用せん」
宋江・盧俊義 旨を承け、再拜して謝恩し、内を出でて馬に上り、營に回る。

宋江と盧俊義が、境遇の解釈でモメる

宋江・盧俊義 両個 馬上に在りて歡喜し、馬を並べて行く。城を出で、只だ街市に一個の漢子あるを見る。手裏に一件のものを拿す。両條の巧棒、中に小索を穿ち、手を以て牽動すれば、かの物 便ち響く。宋江 見て、卻りて識らず。軍士をしてかの漢子を喚びて問ふ、
「此は何物ぞ」
かの漢子 答へて道ふ、
「此れ胡敲なり。手を用つて牽動すれば、自然に聲有り」

宋江 乃ち詩一首を作る、
「一聲は低く、一聲は高し。嘹喨たる聲音 碧霄に透る。
 空しく有り、許多の雄氣力、人の提挈する無ければ謾に徒勞す」

宋江 馬上に在り、盧俊義と笑ひて道ふ、
「この胡敲 正に我と你とに比す。空しく沖天の本事に有るも、人の提挈〈援助〉する無くんば、何ぞ能く響き振はん」
盧俊義道ふ、
「兄長 何の故に、此の言を發する。我ら胸中の学識に據れば、古今の名將の下に在らず。如し本事無くんば、枉げて自ら人の提挈する有るも、亦た何の用を作さん」
宋江道ふ、
「賢弟 差〈たが〉へり。我ら若し宿太尉の一力もて保奏するに非ざれば、如何で能く天子に重用せられん。人為れば、本を忘る可からず」
盧俊義 自ら失言を覚え、敢へて回話せず。

◆百二十回本のオリキャラを退場させる

両個 回りて營寨に到り、帳に陞りて坐す。その時 諸將を會集す。
除〈た〉だ女將の瓊英 懷孕に因りて病に染み、東京に留下し、葉清の夫婦をして伏侍し、醫を請ふて調治せしむる外、其の餘の將佐は、盡く鞍馬・衣甲を收拾して、准備して起身し、方臘を征討せしむ。

後に瓊英 病ひ痊え、彌月にして、一個の面方に耳の大なる兒子を産む。名を取りて張節と呼ぶ。
次後、丈夫の賊將 厲天閏に獨松関にて殺死さるるを聞きて、瓊英 哀慟して昏絕し、隨ちに葉清の夫婦と親ら獨松関に到りて、柩を扶して張清の故郷たる彰德府に到りて安葬す。
葉清 又 病に因りて故す。

瓊英 安氏の老嫗とともに、孤兒を苦守す。張節 長大となり、吳玠に跟きて大いに金の兀朮を和尚原に敗り、兀朮を殺して、亟〈すみ〉やかに須髯を鬄して遁れしむ。此に因りて、張節 官爵に封ぜらるるを得て、家に歸りて母を養ひ、以て天年を終はる。奏請して其の母の貞節を表揚す。此れは瓊英ら貞節・孝義の結果なり。

宋江が出陣する

宋江 詔を奉じて方臘を討ずるの次日、内府にて賞賜の緞疋・銀兩を關到し、諸將に分俵し、三軍の頭目に給散し、便ち金大堅・皇甫端を起送して、御前に聽用せしむ。

宋江 一面 戰船を調撥して先行せしめ、水軍の頭領に著令して、篙櫓・風帆を整頓し、撐駕して大江を望みて進發せしめ、令を傳へて馬軍の頭領に与へ、弓箭・鎗刀・衣袍・鎧甲を整頓す。
水陸 並びに進み、船騎 同行し、收拾して起程せしむ。

◆蕭譲・楽和を、大臣に連れていかれる

只だ見る、蔡太師 府幹を差はして營に到り、「聖手書生」たる蕭讓を索取して、他の代筆するを要〈もと〉む。
次日、王都尉 自ら来りて宋江に問ひ、「鐵叫子」樂和を求む。此の人の善く歌唱するを聞きて、他の府裏に使令するを要むるなり。

宋江 只得〈ぜひなく〉依允し、隨ちに又 二人を起送して訖はる。宋江 此れより五個の弟兄を去り、心中 はなはだ鬱鬱として楽しまず。盧俊義と計議して定むるに当たり、諸軍に号令し、准備して出師す。

◆方臘の乱について

この江南の方臘 造反して已に久しく、積漸して成る。想はず、かく大事業を弄到す。
此の人 原是 歙州の山中の樵夫なり。溪邊に去きて浄手するに因りて、水中に自己の頭に平天冠を戴き、身に袞龍袍を穿するを照見し、此を以て人に説く、
「自家〈われ〉天子の福分有り」と。

朱氏〈宣和遺事に見える〉の吳中に在りて花石綱を徵取するに因り、百姓 大いに怨み、人人 亂を思ふ。
方臘 機に乘じて造反し、清溪の縣內 幫源洞中に就〈おい〉て、寶殿・內苑・宮闕を起造し、睦州・歙州に、亦 各々行宮有り。仍つて文武の職臺、省院の官僚、內相の外將、一應の大臣を設く。睦州は即ち今の建德、宋 改めて嚴州と為す。歙州は即ち今の婺源、宋 改めて徽州と為す。
……(地理の説明を中略)……

方臘 自ら國王と為り、獨り一方に霸たり。小可に同じきに非ず。原來 方臘は上、天書・推背圖上に應ず。道ふ、
「十千に一點を加へ、冬は盡きて始めて尊を稱す。縱橫 浙水を過ぐ。顯跡は吳興に在り」と。
かの十千は、「万」なり。頭に一點を加ふれば、乃ち「方」の字なり。冬の盡くるは、「臘」なり。尊を稱するは、乃ち南面して君と為るなり。正に方臘といふ二字に應じ。江南の八郡を佔據し、長江の天塹を隔つ。又 百差 多少の來去するに比応す。

宋江が淮安県で、戦況を説明される

宋江 將を選びて師を出さんとし、省院の諸官に相ひ辭す。當有の宿太尉・趙樞密 親ら行を送り、三軍を賞勞す。
水軍の頭領、已に戰船を把りて泗水より淮河に入り、淮安軍壩を望む。俱に揚州に到りてりて齊を取る。
宋江・盧俊義 宿太尉・趙樞密に謝して、人馬を將て分つて五起と作し、旱路を取りて揚州に投ず。路に於いて話すこと無し。

前軍 已に淮安縣に到りて屯札す。當有の本州の官員、筵を置きて席を設け、宋先鋒の到来するを等ち接す。請ひて城中に進めしめ管待し、訴ふ。
「方臘の賊 兵は浩大にして、敵を輕んず可からず。前面 便ち揚子の大江、此は江南 第一個の險隘の處にして、江を隔つれば、卻りて潤州なり。今 方臘の手下たる樞密の呂師襄 並びに十二個の統制官 江岸を守把す。若し潤州を得て家と為さずんば、以て敵に抵り難し」

宋江 聽き了はり、便ち軍師の吳用に請ふて、良策を計較す。即目・前面は、大江 攔截す。須らく水軍の船隻を用ひて、向前すべし。
吳用道ふ、
揚子江中、金焦の二山有り。潤州の城郭に靠す。可叫幾個の弟兄をして、前みて路を探り、打聽せしむべし。隔江の消息、何の船隻を用ひて、以て渡江す可きやを」
宋江 令を傳へ、水軍の頭領を喚ばしめて、前みて令を聽かしむ。
「你衆弟兄、誰人か我がために先づ去きて路を探り、隔江の消息を打聽せん」

只だ見る、帳下に聴過せる四員の戰將、盡く皆 往かんと願ふ。この幾個の人の路を探るより、分教有りて、屍を橫たふる北固山に似て高く、血を流して揚子江を染めて赤く、直ちに大軍をして烏龍陣に飛渡し、戰艦に白鴈灘を平吞せしむるにあらずや。
畢竟 宋江の軍馬、いかに方臘を收むるや。且聽下回分解。

◆おまけ

この一回に辞別して山に帰った3人(うち河北の降将は2人)
公孫勝、(喬道清、馬霊)
京師に留まった6人(うち河北の降将は2人)
金大堅、皇甫端、蕭譲、楽和、(瓊英、葉清)